白河藩/阿部家10万石:阿部正静 幕末時には棚倉へ移封により廃藩 城主不在のまま白河城攻防戦が勃発した

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白河藩の歩み

江戸時代を通じて様々な大名が統治したが、幕末期は阿部家が城主として治めていました。分家の旗本から本家を相続して第7代藩主となった「阿部正外」は間もなく老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され四万石を減封されました。

白河藩/場所・アクセス・地図 阿部家10万石:阿部正静 幕末時には棚倉へ移封により廃藩 城主不在のまま白河城攻防戦が勃発した【幕末維新写真館】

慶応二年(1866年)、第8代藩主の「阿部正静」のとき棚倉藩に転封となり、白河藩領は二本松藩の預かり地となりました。このため「戊辰戦争」時は藩主不在で戦闘がおこり白河城は戦火によって大半を焼失しました。慶応四年(1868年)二月、正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年十二月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となりました。

以後天領(幕府の直轄地)となり、明治二年(1869年)八月に白河県が設置されました。明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」を経て同年十一月に二本松県となり、その後に福島県へ編入されました。

★戊辰戦争のとき、この城に藩主はいなかった

白河は戊辰戦争最大級の激戦地です。ところが—そのとき白河城(小峰城)に、藩主はいませんでした。

理由をたどると、幕末政治の中枢に行き当たります。

老中が、朝廷に罷免された

白河藩主の阿部正外(まさとう)は、幕府の老中でした。

慶応元年、兵庫開港問題が起きます。列国の艦隊が兵庫沖に押し寄せ、条約の勅許と兵庫の早期開港を迫りました。阿部正外は、独断ででも開港を認めるほかないと判断します。

これに朝廷が激怒しました。朝廷は、幕府の老中の官位を剥奪し、罷免を命じます。

—朝廷が幕閣の人事に直接手を突っ込みました。これは前例のない事態で、幕府の権威が崩れつつあることを誰の目にも明らかにしました。

阿部正外は隠居させられ、白河藩は棚倉へ移されます。以後、白河は幕府直轄領となりました。

主のいない城をめぐる、最大の激戦

そして慶応四年。

白河は江戸から東北へ入る関門です。ここを押さえられれば新政府軍は一気に北上でき、守り切れば会津と奥羽越列藩同盟は持ちこたえられます。

五月一日、新政府軍が白河口を突破。以後、同盟軍は七度にわたって奪回を試み、そのすべてに失敗します。白河口の戦いだけで、同盟軍の戦死者は七百人を超えたといわれます。

藩主のいない、幕府直轄の城。守る主体がはっきりしないまま、会津・仙台・棚倉・二本松といった諸藩の兵が入り乱れて戦い、そして敗れました。—白河の悲劇は、老中が朝廷に罷免されたあの日から始まっていたとも言えます。

関連する現地取材

南湖を造った藩が、六十七年後に最大の激戦地になりました

白河には日本でも早い時期の公園があります。南湖です。造ったのは寛政の改革の松平定信で、享和元年(1801年)のことでした。

白河市の説明によれば、定信がこの湖を築いたときの理念は「士民共楽」。身分の差に関係なく誰もが楽しめるという考え方で、市は「身分の差が厳しい江戸時代にいつでも誰でも訪れることのできる画期的なもの」と評しています。南湖は大正十三年(1924年)十二月九日、国の史跡及び名勝に指定されました。

その定信の町が、六十七年後に東北最大級の戦場になります。

松平定信の白河

定信は宝暦八年(1758年)生まれ。天明三年(1783年)、養父定邦の後を継いで白河十一万石の藩主となり、天明七年(1787年)六月に御三家と一橋治済の推挙で老中首座となりました。寛政五年(1793年)に老中を辞したあとは、あらためて白河の藩政改革に取り組みます。

白河市は定信の業績として、南湖の築造と並んで「白河関跡」の場所の特定を挙げています。古代の関の場所を突きとめ、身分を問わない公園を造る。寛政の改革で知られる人の、国元での仕事はそういう内容でした。

七家二十一代の城

小峰城の来歴も押さえておきます。

白河市によれば、築城は興国から正平年間(1340〜1369年)の頃、結城親朝によるもの。近世の城になるのは寛永四年(1627年)、初代白河藩主となった丹羽長重の大改修からで、およそ四年の歳月をかけて寛永九年(1632年)に完成しました。

以後の藩主家は丹羽・榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の七家二十一代です(白河市は「松平(結城)」と表記しています)。石高も動きました。丹羽長重が十万七百石、榊原氏十四万石、本多氏十二万石、松平(奥平)氏十五万石、松平(結城)氏十五万石、そして寛保元年(1741年)に松平(久松)氏が十一万石。定信の十一万石はこの系統です。阿部氏は文政六年(1823年)に阿部正権が十万石で入封し、慶応二年まで在封しました。

戦死者は同盟軍九百二十七人、新政府軍百十三人

慶応四年の白河口の戦いについて、白河市が公式に出している数字があります。

市の白河戊辰百五十周年記念事業の解説は、緒戦に敗れた新政府軍が三隊に分かれて白河に迫り、白河南側入り口の稲荷山を中心に最大の戦いがあったとしています。同盟軍側の兵力は「新政府軍の三倍以上」。そして「この戦いで同盟軍九百二十七人、新政府軍百十三人が戦死した」と明記しています。

さらに重要なのが、そのあとの経過です。市は「七月中旬までのおよそ百日間、同盟軍は七度にわたり小峰城の奪還を試みます」が失敗に終わったと書いています。「七回争奪された」という言い方をされることがありますが、市の記述は同盟軍が七度にわたって奪還を試みたという意味です。城が七回入れ替わったのではありません。

進軍の経路も残っています。新政府軍は同盟軍が陣取る稲荷山・立石山・雷神山に向けて、南方の白坂から三方に分かれて進みました。約百日の戦闘での死者は全体で千人以上です。

市内に三十ほどの碑があります

白河でもう一つ特徴的なのは、慰霊の碑の数です。

福島県のキャンペーンサイトは、稲荷山の麓に会津藩戦死墓があり、旧奥州街道を挟んで「長州大垣戦死六人之墓」が建てられていると紹介しています。稲荷山古戦場跡には会津藩戦死墓と会津銷魂碑があり、山頂付近の公園には西郷頼母の碑や会津藩戦死者の慰霊碑があります。稲荷山での戦死者は七百人にも上るといわれます。

そして「市内のいたるところに両軍の碑が三十ほど残されている」。白河市は「白河の慰霊碑マップ」を用意しています。会津の墓と長州・大垣の墓が街道を挟んで向かい合っている町、というのが白河の戊辰の残り方です。

城跡は平成二十二年に国史跡になりました

小峰城跡の文化財としての扱いは、意外に新しいものです。

国史跡の指定は平成二十二年(2010年)八月五日。その後平成二十四年九月十九日、平成二十六年三月十八日、令和三年(2021年)三月二十六日に追加指定されています。

建物では三重櫓が平成三年(1991年)、前御門が平成六年(1994年)に復元されました。木造での復元です。

そして平成二十三年(2011年)三月十一日の東日本大震災で石垣が崩落し、修復が完了したのは平成三十一年(2019年)三月でした。八年かかっています。戊辰で焼け落ちた城が、平成の地震でもう一度崩れ、八年かけて積み直されたということです。

展示施設についても一点ご注意ください。かつての「白河集古苑」はリニューアルされ、平成三十一年(2019年)四月に「小峰城歴史館」として開館しています。城山公園内、白河市郭内一丁目です。別に白河市歴史民俗資料館があり、平常展示「白河の歴史と文化」のなかで映像「戊辰戦争白河口の戦い ― 激戦と慰霊 ―」(約十三分)を上映しています。なお中世の白河結城家文書は国の重要文化財で、原本は小峰城歴史館の所蔵です。

移封の年について、資料が分かれています

最後に、当ページ本文が扱っている阿部家の棚倉移封について、資料の食い違いを整理しておきます。

白河市公式は「慶応二年(1866年)の阿部氏の棚倉移封により、白河は幕府領となります」としています。いっぽう日本大百科全書は「1867年(慶応3)棚倉移封となり、翌年また白河に復帰した」と書いており、年次が一年ずれ、しかも白河復帰に触れています。当ページ本文の「慶応四年二月に復帰し、明治元年十二月に再び棚倉へ」という記述は、この後者の系統と符合します。

移封の月日は、自治体公式にも辞典類にも記載がなく分かりません。「白河藩領は二本松藩の預かり地となった」という点も、白河市公式は「幕府領となります」までしか書いておらず、預かりの主体までは確認できていません。

明治の白河は、白河市の記述では明治二年(1869年)に白河県、明治四年(1871年)に二本松県、引き続き福島県という経路をたどります。福島県歴史資料館によれば、明治四年七月の廃藩置県で福島・白河・若松・二本松・三春・棚倉・中村・平・湯長谷・泉の十県が置かれ、十一月には若松・二本松・平県に統合され、直後に二本松県は福島県に、平県は磐前県に改称されました。現在の県域が固まるのは明治九年(1876年)八月二十一日です。

白河から棚倉へ移った阿部家の棚倉城が落ちた戦いは、こちらで解説しています。
棚倉城の戦いとは?主力を白河口に出した棚倉藩が1日で城を失った戊辰戦争を図解でわかりやすく

場所・アクセス・地図

白河小峰城
〒961-0074 福島県白河市郭内

白河藩をもっと詳しく

幕末の藩主・阿部家の系統

幕末に白河を治めた阿部家は、江戸時代前期の老中・阿部忠秋の流れをくむ「忠秋系阿部家(豊後守家)」で、武蔵の忍藩から白河へ移ってきた家です。七代藩主の阿部正外は、もともとこの家の分家にあたる三千石の旗本の出身でした。分家の祖は、忠秋の養子となって忍藩を継いだ阿部正能の三男・正房です(正能は上総の大多喜藩主から忍藩へ移った人物です)。

正外の長兄・正定は嘉永元年(1848年)に本家の白河藩を継ぎ、正外は同じ年に亡くなった父の跡を継いで旗本になりました。その後、白河藩は同族の阿部正耆が藩主となっていましたが、元治元年(1864年)三月二日に急死し、跡継ぎの光之助(のちの正功)が幼かったため、同年三月四日、幕府の命令で正外が白河藩十万石を継ぐことになりました。

旗本から老中へ:阿部正外の歩み

正外は大老・井伊直弼に重く用いられ、安政六年(1859年)には和宮の江戸下向をめぐる朝廷との交渉にあたりました。文久元年(1861年)に神奈川奉行となり、翌年の生麦事件の対応に追われたのち、外国奉行、北町奉行を歴任します。白河藩主となった元治元年の六月二十四日には老中に進み、藩兵に洋式の訓練を施すよう家老に命じるなど、藩の軍制改革にも取り組みました。同じ年、大坂で軍艦奉行の勝海舟と会っていますが、海舟の考えを危ういとみて幕府に報告し、海舟の罷免に関わったと推測されています。

慶応元年(1865年)二月には、老中の本庄宗秀とともに兵四千を率いて上洛し、朝廷と交渉しました。九月には、兵庫の開港と大坂の開市を求めるイギリス・フランス・オランダの三か国と兵庫で交渉し、同僚の松前崇広とともに勅許を待たずに開港を認める方針を決めます。これに一橋慶喜が強く反対し、将軍家茂の前で激しい論争になったと伝わります。朝廷は二人の官位を取り上げ、改易を命じましたが、一会桑のとりなしで謹慎に改められ、正外は十月一日に老中を免じられました。白河で謹慎したのち、慶応二年(1866年)に隠居・蟄居を命じられ、長男の正静が家督を継ぎました。

戊辰戦争での阿部家の動き

同じ年、阿部家には実際の収入の少ない棚倉藩への転封が言い渡されました。阿部家が引き延ばしをはかったため、実際の移動は慶応三年(1867年)一月にずれこみます。慶応四年(1868年)二月には白河への再転封が幕府から言い渡されましたが、実行されないうちに戊辰戦争が始まりました。阿部家は奥羽越列藩同盟とともに新政府軍と戦うことになり、白河城と棚倉城の二つを守らなければならない立場に置かれます。

阿部正外の伝記では、五月一日に正静の守る白河城が板垣退助の率いる新政府軍に落とされたと書かれており、白河城に藩主がいたかどうかは資料によって描き方が異なります。六月二十四日、正外は棚倉城が新政府軍の手に渡らないよう城に火を放つことを命じ、残った兵を率いて保原の分領へ退きました。そのため板垣の新政府軍は棚倉城を陣営に使えず、近くの蓮家寺を本陣としています。阿部家は保原陣屋で新政府軍に降伏し、領地は十万石から六万石に減らされました。正外は明治二十年(1887年)四月二十日、東京で五十九歳で亡くなっています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十万石(阿部家の時代)のこの藩はおよそ二千三百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「阿部正外」

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