長州ファイブとは——国禁を破って英国へ渡った五人は、帰国後それぞれ何の「父」になったのか

洋装でロンドンのテムズ川沿いに立つ長州ファイブの五人(イメージイラスト)

長州ファイブ(長州五傑)とは、文久三年(1863年)、幕府が禁じていた海外渡航を破ってイギリスへ渡った長州藩の若者五人のことです。帰国後、五人はそれぞれの分野で明治国家の土台をつくり、のちに「外交の父」「内閣の父」「工学の父」「造幣の父」「鉄道の父」と呼ばれるようになりました。

この記事では、攘夷の藩がなぜ若者を「敵国」へ送り出したのか、五人がロンドンで何を見たのか、そして帰国後にそれぞれ何を担ったのかを順にたどります。

目次

長州ファイブは、この五人でした

  • 井上聞多(のちの井上馨)
  • 伊藤俊輔(のちの伊藤博文)
  • 山尾庸三
  • 遠藤謹助
  • 野村弥吉(のちの井上勝)

密航したとき、最年長の井上聞多と遠藤謹助でも二十代の後半、最年少の野村弥吉はまだ二十歳前後でした。

攘夷の藩が、ひそかに留学生を送り出しました

五人が横浜を発ったのは、文久三年五月十二日(1863年6月27日)の夜でした。そのわずか二日前の五月十日、長州藩は関門海峡を通る外国船への砲撃を始めています。攘夷の先頭に立っていた藩が、同じ時期に若者をひそかに西洋へ送り出していたことになります。

一見すると矛盾していますが、長州藩の中には「攘夷を実行するにしても、相手の力を知らなければ戦えない」という考えがありました。西洋の技術を学んで持ち帰ることは、藩を強くするための手段でもあったのです。

渡航は藩の正式な命令ではなく、藩の重役が内々に認める形で進められました。藩から渡された資金だけでは足りず、藩が武器購入のために用意していた資金から五千両を借りて費用にあてたと伝わります。

夜の横浜港で、小舟から商船へ乗り込む長州藩の若者たち(イメージイラスト)
夜の横浜港から密航する五人(イメージ)

上海を経て、ロンドンへ向かいました

五人はイギリスの商社ジャーディン・マセソン商会の手配で船に乗り込み、まず上海へ向かいました。港に並ぶ西洋の艦船を見て、攘夷がいかに無謀かを思い知ったといわれています。

上海からは二手に分かれてロンドンを目指しました。井上聞多と伊藤俊輔が乗ったのはペガサス号です。英語が十分に通じず、「航海術(ネイビゲーション)を学びたい」という言葉が船員志望と受け取られ、二人は水夫同然に働かされながら海を渡ったという話が残っています。

ロンドンでは、ウィリアムソン教授のもとで学びました

ロンドンに着いた五人は、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの家に身を寄せました。ウィリアムソンはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の教授で、五人はここで聴講生として学び始めます。

英語や化学、数学を学ぶかたわら、造船所や工場、博物館などを見て回りました。鉄道や蒸気機関、工場の大きさは、日本で思い描いていた「夷狄」の姿とはまったく違うものでした。

洋装でロンドンのテムズ川沿いに立つ長州ファイブの五人(イメージイラスト)
ロンドンの五人(イメージ)

伊藤と井上の二人は、一年ほどで帰国しました

元治元年(1864年)の春、ロンドンにいた二人のもとに、長州藩が外国船を砲撃し、列強が報復に動こうとしているという知らせが届きました。これを知った井上聞多と伊藤俊輔は、留学を切り上げて帰国することを決めます。イギリスの国力を見てしまった二人には、このまま戦えば長州が滅びることがわかっていたからです。

二人は帰国後、藩の重役に攘夷の中止を説いて回りました。しかし説得は実らず、長州藩は四国艦隊(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)の砲撃を受けて敗れます。その講和交渉では、伊藤が通訳として立ち会いました。二人の帰国のいきさつは「伊藤博文と井上馨はなぜ留学を途中でやめたのか」でくわしく紹介しています。

残った三人は、学びを続けました

  • 遠藤謹助は、イングランド銀行などで紙幣や貨幣をつくる技術を目にしたのち、慶応二年(1866年)に帰国しました。
  • 山尾庸三は、UCLで学んだのち、慶応二年の秋に造船の町グラスゴーへ移り、昼は造船所で働き、夜は学校で学びました。
  • 野村弥吉(井上勝)は、UCLで地質学や鉱山学などを学び、優秀な成績を残しています。

山尾と野村が帰国したのは明治元年(1868年)です。すでに幕府は倒れ、新しい政府が動き始めていました。

帰国後、五人はそれぞれの「父」になりました

井上馨 ―「外交の父」

外務卿・外務大臣として、幕末に結ばれた不平等条約の改正に取り組みました。鹿鳴館での欧化政策でも知られます。

伊藤博文 ―「内閣の父」

内閣制度をつくり、初代内閣総理大臣となりました。大日本帝国憲法の起草にも中心的な役割を果たしています。

山尾庸三 ―「工学の父」

工部省の設立を建議し、技術者を育てる工学寮(のちの工部大学校、東京大学工学部の前身)を創設しました。盲唖教育の道を開いた人物でもあります。くわしくは「山尾庸三とは」の記事で紹介しています。

遠藤謹助 ―「造幣の父」

大阪の造幣局で、外国人技術者に頼らず日本人の手で貨幣を造る体制づくりを進めました。造幣局長のとき、構内の桜を市民に開放する「桜の通り抜け」を始めたことでも知られています。くわしくは「遠藤謹助とは」で紹介しています。

井上勝 ―「鉄道の父」

鉄道頭として、明治五年(1872年)の新橋〜横浜間の鉄道開業にたずさわりました。その後も鉄道の建設を率い、東海道線の全線開通まで日本の鉄道づくりの先頭に立ちました。くわしくは「井上勝とは」で紹介しています。

ゆかりの地

五人がロンドンで学んだUCLには、五人を顕彰する碑があります。山口県内にも記念碑が建てられており、山口市の新山口駅前や山口大学で見ることができます。

国の禁を犯して海を渡った二十代の若者たちが、帰国後に明治日本の外交・政治・工業・貨幣・鉄道をそれぞれ担うことになりました。長州ファイブは、幕末の攘夷から明治の近代化へと向かう転換を、五人の生き方で示した存在だったといえます。

情報源について

この記事は、ウィキペディア「長州五傑」「山尾庸三」「遠藤謹助」「井上勝」、山口県立山口図書館「明治維新人物調べ方案内」などを参照して構成しました。渡航費用の工面や船中の逸話など、伝承として語られる部分は「伝わる」「話が残る」と表現しています。

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