千葉県君津市、房総半島のまん中あたりに久留里という町があります。JR久留里線の終点近く、山にはさまれた城下町で、その背後の山に久留里城が建っています。
幕末の久留里藩は黒田家三万石。ただ、この城の名前が歴史に出てくるのは、むしろ戦国時代です。里見氏と北条氏が房総をめぐって何十年も争った、その里見方の拠点がここでした。

里見義堯が本拠にした城です
君津市公式は、この城の起こりを「平安時代中期の猛将平将門の三男、東少輔頼胤が初めてこの地に砦を構えた」という言い伝えとして紹介したうえで、「確証がなく伝説と考えられています」とはっきり書いています。
史料の上でこの城が大きく動くのは十六世紀です。精選版日本国語大辞典は天文年間(1532〜55年)に里見義堯が築城としています。足利義明が戦死した天文七年(1538年)以降、義堯は上総へ進み、久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築きました。
北条氏との戦いは長く続きます。天文二十二年(1553年)四月から北条綱成らが毎年のように房総へ侵攻し、沿岸の金谷城や佐貫城が落ちました。永禄三年(1560年)、北条氏康が里見領へ攻め込むと、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利しています。永禄七年(1564年)には久留里城が一時落ち、永禄十年(1567年)の三船山合戦のときには、氏康が三男氏照らを久留里城の攻撃に向かわせました。

城内にはこの争いを記した「里見北条古戦史」の碑が立っています。上総ライオンズクラブが昭和五十四年八月に建てたもので、碑文は天文二十三年(1554年)前後の攻防を扱っています。ただ、辞典類で確かめられる久留里城の攻防は永禄三年・七年・十年のものです。碑は昭和に建てられた顕彰碑で、一次史料ではありません。碑文の年次をそのまま史実として書くことはできない、というのが正直なところです。
新井白石は、この藩の家臣の子でした

二の丸に、烏帽子をかぶった人物の銅像が立っています。新井白石です。
日本大百科全書によれば、白石の父正済は久留里二万一千石の譜代大名・土屋利直の家臣で目付を務めており、白石自身も利直に仕えて寵愛を受けました。ところが延宝五年(1677年)、二十一歳のときに土屋家の内争に連座して追放・禁錮の処分を受けます。世界大百科事典は「父子ともに土屋家を追い出され、他家への奉公も禁ぜられた」と書いています。
その禁錮が解けたのは、皮肉にも主家が潰れたからでした。延宝七年(1679年)、土屋直樹が狂気を理由に改易され、久留里城も破却されます。仕官の道が開けた白石は、天和二年(1682年)に大老堀田正俊へ出仕しました。のちに六代将軍家宣・七代家継のもとで政治を動かす人物の出発点が、この城下にあります。
銅像の建立年や建立者は、君津市公式にも観光の案内にも記されておらず、今回は確かめられませんでした。
黒田家による再興と、幕末
土屋家の改易から六十年あまり、久留里は城のない土地でした。寛保二年(1742年)に黒田直純が三万石で入封し、城と城下町を整えます。以後、黒田家が幕末まで続きました。
最後の藩主黒田直養は嘉永二年(1849年)四月八日の生まれで、慶応二年(1866年)四月二日に家督を継ぎました。慶応四年二月、上野寛永寺で謹慎した徳川慶喜の警護を榊原政敬とともに務め、同年閏四月に新政府へ恭順しています。藩としての詳しい動きは久留里藩のページにまとめました。
直養は明治十年に債務の問題で隠居しており、明治十七年の華族令のときの当主ではありません。子爵を受けたのは、黒田直和の二女鏻子の入夫として家を継いだ黒田和志で、明治十七年七月八日のことでした。藩校は、コトバンクの事典が三近塾、Wikipediaの藩校一覧が明新館としていて名前が一致しません。
廃城の年も資料で揺れています。君津市公式のページは、一方が明治四年秋に廃城、もう一方が明治五年に廃城として建物の解体に触れています。
いまの城と、歩いたときのこと

登り口から歩くと、まず二の丸に出ます。案内板には「久留里城址 二の丸跡」とあり、左が本丸・天守閣、右が資料館。二の丸跡地に建つのが君津市立久留里城址資料館で、入場は無料、展示は「郷土を掘る」「城と武士」「信仰と文化」の三部構成です。上総掘りの用具も並んでいます。
山道の脇には、こんな標柱が立っていました。

久留里城は、主郭を中心に四方へ伸びる尾根に曲輪が刻まれた山城です。天守のある場所の横には、発掘された天守台も残っています。現存する遺構として挙げられるのは土塁・空堀・井戸で、建物は残っていません。

いまの天守は模擬天守です。完成した年は資料によって分かれ、君津市公式は昭和五十三年に天守閣が完成し、翌年に資料館も完成としています。一方Wikipediaは昭和五十四年の建設とします。鉄筋コンクリートの二層三階建て、延べ面積は約百九十平方メートル、高さは十五メートルです。
なお君津市公式によれば、令和五年五月の地震で屋根の鯱瓦が破損し、天守閣の内部は立入禁止になっています。外から眺めるぶんには問題ありません。訪ねるときは、市のページで現況を確かめてからのほうが確実です。

城下の水
久留里は水の町でもあります。君津市公式によれば、明治中期に上総地方で生まれた上総掘りの技術で各地に自噴井戸が掘られ、平成二十年六月、「生きた水・久留里」が千葉県で唯一の「平成の名水百選」に選ばれました。環境省のデータベースは、地下四百から六百メートルという大深度から汲み上げていること、一日の湧水量が四十三トンであることを記しています。
城下には新町の井戸や雨城庵の井戸など、一般に開放された井戸があります。全部の井戸が水質検査をしているわけではないので、飲める井戸は久留里観光交流センターで確かめてくださいとのことです。
「雨城(うじょう)」という久留里城の別名の由来を、君津市公式は二つ挙げています。城が完成したあと三日に一度、二十一回雨が降ったという話と、山によく霧がかかって遠くからは雨のように見え、城の姿が隠れて攻められにくかったという話です。水の町の城に雨の名前がついているのは、できすぎのようでもあります。
場所・アクセス・地図
久留里城(雨城)/千葉県君津市久留里字内山。JR久留里線・久留里駅から徒歩およそ三十五分、車なら城山の駐車場(無料)から本丸まで徒歩十五分ほどです。二の丸に君津市立久留里城址資料館(入場無料、月曜休館)。
