棚倉藩の歩み
戊辰戦争では、藩主「阿部正静」が藩兵を率いて「奥羽越列藩同盟」に参加、白河口において新政府軍と対峙しました。慶応四年(1868年)六月二十四日、棚倉城は新政府軍の攻撃を受けて落城し正静は降伏しました。維新後は四万石を減封されました。

明治四年(1871年)、阿部正功の代のときの「廃藩置県」により棚倉藩は廃藩となります。城趾には現在、公園と町の公民館があり水堀のまわりには桜の木が立ち並び毎年春には町民の花見場所となっています。
棚倉藩はしばしば、中級、下級の譜代大名の懲罰的な目的での転封の対象地になり、また藩主家の長期の定着がなく、藩の支配体制は不完全なまま経てきました。石高は表高より内高が少ない藩でした。
落城のあとに残ったのは、土塁と二つの一宮でした
棚倉城は慶応四年に落ちて、そのまま城としての役目を終えました。ところが、この城跡は近年あらためて評価されています。
棚倉城跡は平成三十一年(2019年)二月二十六日、国の史跡に指定されました。県指定でも町指定でもなく、国史跡です。棚倉町は2025年を築城四百年として「棚倉城築城400年」の事業を行っています。
残っているのは石垣ではなく土塁です
この城の特徴は、天守や石垣ではなく土塁です。棚倉町の「町まるごと博物館」が実測値を載せています。
本丸の土塁は長さ約六百四メートル、高さ三・八メートル、狭間は四百十六個、角櫓が四つ。二の丸の堀は長さ約千五メートル。町の観光物産協会の説明では「大きな土塁と、土塁の上を全周する多門櫓などで、二ノ丸西面には約百六十メートルにわたり石垣が残っています」。
土塁の上を櫓がぐるりと一周する構えで、狭間が四百十六。数字を並べると、この城が何のために造られたのかがよく分かります。
築城の前に、神社が動きました
棚倉城の築城には、その前に一つ手続きがありました。神社の移転です。
棚倉町の説明によれば、元和八年(1622年)に常陸国江戸崎から棚倉に移された丹羽長重が幕府から築城の命を受け、寛永元年(1624年)、近津明神(都々古別神社)を馬場の地に遷宮し、翌寛永二年(1625年)、その跡地に棚倉城の築城に着手しました。
つまり城は神社の跡地に建てられました。陸奥一宮を動かして、その場所に城を置いたわけです。長重はその二年後の寛永四年(1627年)に白河へ移りますから、自分が造った城にいた期間は短いものでした。
なお、その前に棚倉にいた立花宗茂は城を築いていません。百科事典マイペディアは「宗茂は1620年筑後国柳川に転じるまで屋敷に住して築城せず」と記しています。棚倉城を築いたのは丹羽長重ただ一人です。
二つの一宮 ― 指定の区分が違います
棚倉には都々古別神社が二社あり、どちらも一宮を称しています。ただし文化財としての扱いは違うので、分けて書きます。
馬場都々古別神社は陸奥一宮。城のために動かされた社です。本殿は文禄三年(1594年)に佐竹義宣が造営したとみられ、平成二十六年(2014年)十二月十日に国の重要文化財に指定されました(名称は「都々古別神社本殿」、時代は桃山時代)。社宝には鎌倉時代の長覆輪太刀と赤絲威鎧残闕があり、こちらも国の重要文化財です。
八槻都々古別神社は奥州一宮の近津明神として崇敬された社で、祭神は日本武尊と味耜高彦根命。本殿と随身門はいずれも福島県指定の重要文化財で、正徳元年(1711年)に焼失した後、享保年間(1716〜36年)に再建されたとみられています。ほかに国指定の銅鉢、国認定重要美術品の木造十一面観音立像、県指定の八槻文書・御正体・大般若経・八槻家住宅があります。
両社をまとめて「重文」と書くと誤りになります。国の重要文化財の本殿は馬場のほう、八槻の本殿は県指定です。
城跡でもう一つ見られるのが大ケヤキ。棚倉町は「追手門の跡付近の推定樹齢六百四十年の大ケヤキは、棚倉のシンボルとなっています」としています。築城より二百年以上古い木です。
阿部正静に爵位はありません
最後の藩主について、よく誤解される点を整理します。
阿部正静は1850年頃の生まれで、慶応二年、父(阿部正外)の蟄居により陸奥白河藩主・阿部家八代となり、その後陸奥棚倉へ移封されて棚倉藩主阿部家初代となりました。戊辰戦争のときは十九歳前後です。
そして明治十一年(1878年)一月二十三日に三十歳で死去しています。華族令が出るのは明治十七年(1884年)ですから、正静は爵位を受けていません。子爵になったのは後継の阿部正功で、明治十七年七月八日のことです。
維新後の処分についても、転封ではありませんでした。正静は強制的に隠居させられ、正功が明治元年十二月十四日に四万石減封の六万石で家督相続を許され、明治二年(1869年)六月の版籍奉還で藩知事となって棚倉に戻り、明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で免官されました。十万石から六万石へ減らされたうえで、棚倉にとどまったということです。
なお棚倉城が落ちた日は慶応四年六月二十四日とされます。白河から板垣退助率いる新政府軍が八百の兵で南東へ向かい、その日のうちに落城したという記述がありますが、これらは出典の弱い資料によるものです。棚倉町の公式は「幕末の戊辰戦争で新政府軍と戦い落城」「慶応四年(1868年)、戊辰戦争で落城するまでの二百四十余年」としか書いていません。正静の逃亡先を会津とも仙台とも特定できる資料は見つかりませんでした。
県の変遷 ― 白河県は経由していません
廃藩置県後の棚倉について、経路を正確に書いておきます。
福島県歴史資料館によれば、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で福島・白河・若松・二本松・三春・棚倉・中村・平・湯長谷・泉の十県が置かれました。棚倉県はその一つです。そして「十一月には若松・二本松・平県に統合された。その直後、二本松県は福島県に、平県は磐前県に改称された」。
コトバンクの「藩名・旧国名がわかる事典」は棚倉について「棚倉県が成立、その後、平県、磐前県を経て、七六年福島県に編入」としています。つまり棚倉県 → 平県 → 磐前県 → 福島県で、白河県は経由していません。白河は同じ明治四年十一月に二本松県へ入り、そこから福島県になる別の系列です。同じ藩主が治めた二つの町が、県になったところで別々の道をたどったことになります。
現在の県域が固まるのは明治九年(1876年)八月二十一日、福島・若松・磐前の三県が一県になったときです。
棚倉の現地を歩いた記録
棚倉藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。
慶応4年6月24日、棚倉城が1日で落ちた戦いの流れは、こちらで詳しく解説しています。
棚倉城の戦いとは?主力を白河口に出した棚倉藩が1日で城を失った戊辰戦争を図解でわかりやすく
場所・アクセス・地図
〒963-6131 福島県東白川郡棚倉町棚倉城跡
棚倉藩の成り立ち ― 立花宗茂の大名復帰と丹羽長重の築城
棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国南部の要地・棚倉に置かれた藩です。その始まりは、関ヶ原で西軍に与して改易された猛将・立花宗茂の、大名としての復活でした。その武勇と人格を家康に惜しまれた宗茂は、慶長八年(1603)に棚倉へ一万石で入り、のちに三万五千石にまで加増されます。宗茂が柳河へ返り咲いたのち、元和八年(1622)に丹羽長重が五万石で入封し、平地に本格的な棚倉城を築いて城下町を整えました。
歴代の大名家 ― 「左遷の城」
丹羽家が白河へ移ると、棚倉には内藤・太田・松平・小笠原・井上と、譜代の大名家が次々に入れ替わりました。奥州の抑えという重要な位置ゆえに、幕府にとって動かしやすい土地だったのです。そのため棚倉城は、中央で失脚した大名が飛ばされてくる「左遷の城」とも呼ばれました。その最たる例が、幕末に入封する阿部家でした。
江戸期のできごと
棚倉藩は、内藤弌信の時代に藩財政の窮乏に苦しみ、松波勘十郎を登用した改革を試みるも失敗するなど、多くの藩と同じく財政難と向き合い続けました。その後、小笠原家が六万石でおよそ七十年にわたる比較的安定した統治を行い、続く松平(松井)家の康英は老中に昇進して二万石を加増されるなど、幕政に関わる藩主も現れました。
幕末の棚倉藩 ― 懲罰転封と落城
慶応二年(1866)、白河藩主で老中だった阿部正外が、兵庫開港問題で朝廷の勅許を得ぬまま開港を進めようとして失脚し、その懲罰として白河から棚倉へ転封されました。まさに「左遷の城」の面目躍如です。正外は隠居させられ、子の阿部正静が十万石の藩主となりました。戊辰戦争では、正静は奥羽越列藩同盟に加わって白河口に出兵するが、守備が手薄となった棚倉城は、慶応四年六月二十四日、板垣退助率いる新政府軍にわずか半日で攻め落とされました。維新後、阿部家は四万石に減封され、明治四年の廃藩置県で二百四十六年の藩の歴史は幕を閉じました。
現地の城跡の様子は、棚倉城・棚倉藩の現地取材記事でも詳しく紹介しています。



