万里丸【肥後藩 輸送蒸気船 幕末軍艦】

万里丸
藩名 熊本藩
藩主 細川韶邦(慶順)
船種 輸送船
機関 蒸気船
備砲 0門
材質 木製
馬力 不明
写真 絵図
万里丸のイメージイラスト
万里丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気船)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

熊本藩が買った洋式の蒸気船で、藩にとって初めての蒸気船とされます。

天保山沖に並んだ六隻の、一隻でした

明治元年三月二十六日、大阪の天保山沖で明治天皇が諸藩の軍艦をご覧になりました。防衛省防衛研究所の論考も大阪市の年表も、これをわが国で最初の観艦式としています。並んだのは日本の軍艦六隻とフランスの軍艦一隻で、六隻の内訳を記念碑の解説はこう伝えます。佐賀藩の電流丸、肥後藩の万里丸、久留米藩の千歳丸、薩摩藩の三邦丸、長州藩の小芙蓉丸(華陽丸)、安芸藩の万年丸。総指揮の聖護院宮嘉言親王は電流丸に乗り、二十一発の祝砲が撃たれました。五十四万石の熊本藩は、その最初の観艦式に一隻を並べたことになります。なお万年丸は当サイトでは薩摩藩の船として立てていますが、慶応二年に広島藩へ渡っていますので、同じ一隻とみられます。

フランス製という記述と、グラバーという売り主

万里丸をフランス製とし、長崎の商人グラバーから買ったとする説明がありますが、どちらも裏づけが取れませんでした。熊本藩の船を並べた資料を見ても、ほかの三隻はいずれもイギリス建造と明記されているのに、万里丸だけ建造国の記載がありません。熊本藩とグラバーを結びつける資料も見あたりませんでした。フランスで造られた船をイギリスの商人が仲介すること自体は珍しくありませんので、あり得ない話ではないのですが、確かめられていないことは書いておきます。

熊本藩の四隻

熊本藩が持った船は、万里丸のほかに凌雲丸、泰雲丸、神風丸、奮迅丸が知られます。万里丸を元治元年九月に十二万五千ドルで買ったのがはじめで、六百トン・百三十馬力の木造の外輪船でした。ただしこの数字の出どころは個人が調べた一覧で、公の資料では確かめられていません。

藩主は細川韶邦です

先代の細川斉護は万延元年七月十二日に亡くなっており、万里丸を買った元治元年の藩主はその子の細川韶邦です。韶邦は天保六年六月二十八日の生まれで、はじめ慶順と名のり、慶応四年四月二十三日に韶邦と改めました。「慶」の字が将軍徳川家慶から与えられたものでしたので、新政府につく意思を示すために返上したものです。

目次

万里丸を船の型と持ち主から読む

万里丸は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。

当サイトで紹介している熊本藩(肥後藩)の船は、この万里丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ熊本藩(肥後藩)の船には、奮迅丸(輸送船)、凌雲丸(輸送船)があります。

持ち主の熊本藩—明治の神風連の乱

明治の熊本

幕末の熊本藩では、肥後勤王党の流れをくむ人々が、明治になっても日本古来の伝統を守ることを強く唱え続けました。明治九年(1876)、廃刀令などに反発した彼らは「敬神党」として兵を挙げ、熊本鎮台を襲います。神風連の乱です。乱は一夜で鎮圧されましたが、これに続いて秋月の乱・萩の乱が起き、翌年の西南戦争へとつながっていきました。

船と時代

万里丸のような洋式の船を買い入れて近代化を進めた熊本藩の中にも、西洋化に強く反発する人々がいました。熊本藩の幕末から明治は、近代化と伝統とのあいだで揺れ続けた歩みでもありました。

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