神効丸【佐賀藩 輸送船 幕末軍艦】

神効丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島直正(閑叟)
船種 輸送船
機関 蒸気内輪
備砲 0門
材質 鉄骨木皮
馬力 200馬力
写真 無
神効丸のイメージイラスト
神効丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内輪)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

明治三年(1870年)にイギリスから蒸気船「神効丸」とオランダから蒸気船「日進丸」を購入しました。

その他詳細は不明です。

廃藩の前の年に、まだ船を買っていました

当ページが伝えているのは一行です。明治三年、佐賀藩がイギリスから蒸気船の神効丸を、オランダから蒸気船の日進丸を買った、というもの。目を引くのは年のほうです。明治三年といえば戊辰戦争が終わった翌年で、廃藩置県の前の年にあたります。藩がなくなる一年前に、佐賀藩はまだ外国から蒸気船を買っていたことになります。

同じ年の日進

並べて買われた日進のほうは、素性が分かっています。オランダのヒプス社で千八百六十八年一月二十三日に起工、翌年二月二十日に進水、四月十二日に竣工した船です。慶応三年に佐野常民がオランダへ発注していたもので、明治三年四月十三日に佐賀藩が受け取り、五月十四日に兵部省が献納を許可、六月二十二日に正式に引き渡されました。藩の海軍がそのまま新政府の海軍になっていく時期です。佐野常民は飛雲丸の船将から始まって、最後は自分が発注した船を新政府へ納めるところまで来たことになります。

分からないこと

神効丸そのものについては、原名も建造国も建造年も値段も、そのあとも、資料が見つかりませんでした。

目次

艦船の一覧に、この船名がありません

神効丸について調べを進めると、困ったことになります。幕末の艦船取得を網羅的に整理した朴栄濬の研究の表には、佐賀藩の船として皐月丸、飛雲丸、船名未詳の一隻、電流丸、晨風丸、甲子丸、凌風丸、孟春丸の九件が並びますが、そのなかに「神効丸」はありません。佐賀市・佐賀県・佐賀城本丸歴史館の資料にも見当たりませんでした。

近い名として同じ表には「神風丸」があります。ただしこちらは津藩(安政五年)、肥後藩(元治元年)、久留米藩(慶応二年)の欄にあるもので、佐賀藩ではありません。船名の写し違いか、他藩の船との取り違えという可能性も残ります。誤りと断ずる材料もないため、ここでは両方の可能性を書き残しておきます。

この時期、佐賀藩の船は政府へ移っていきます

神効丸を買ったとされる明治三年は、藩の船が新政府へ集められていく時期にあたります。動きを並べるとこうなります。

日進丸は慶応三年に佐野常民がオランダのヒプス社へ発注したもので、明治二年三月一日に竣工し、明治三年六月二十二日に兵部省が受領して「日進」となりました。孟春丸は明治四年四月十七日に佐賀藩から献納の申し出があり、五月十五日に許可、五月二十二日に受領されて「孟春」と改名されます。

古い船の扱いは違いました。電流丸は献納の申し出があったものの老朽艦だったため砲だけが受領され、明治四年六月に伊万里で売却・解体されています。延年丸も砲のみが献納され、船体は明治四年十二月に伊万里で売られました。使える船は名を変えて海軍に入り、古い船は大砲だけ抜かれて解体された、という分かれ方です。

注意しておきたいのは、日進の受領が明治三年六月、孟春の受領が明治四年五月で、どちらも廃藩置県(明治四年七月)より前だということです。「廃藩置県にともなって藩の船が政府へ移った」という言い方は、実際の順序とは合いません。廃藩の前から、藩は船を差し出し始めていました。

神効丸を船の型と持ち主から読む

神効丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。鉄の骨組みに木の板を張った「鉄骨木皮」の船体で、木造と鉄造の中間にあたる造りでした。

当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この神効丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、秋芳丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)、皐月丸(バーク船)、金花丸(輸送船)、延年丸(バーク船)、凌風丸(輸送船)、孟春丸(スクーナー級砲艦)、飛雲丸(スクーナー)などがあります。

持ち主の佐賀藩の幕末をふり返ると、洋式化の先進藩。戊辰戦争では新政府軍としてアームストロング砲で活躍。神効丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の佐賀藩—佐野常民という人

佐野常民

神効丸は、慶応三年(1867)に佐賀藩の佐野常民がオランダに注文した船です。佐野は藩の精煉方で蒸気機関や船の研究を進めた技術者で、パリ万博では佐賀藩の代表としてヨーロッパに渡りました。注文した船が日本に届いたのは明治三年(1870)、藩の時代が終わりに近づいたころでした。

日本赤十字の父

佐野はヨーロッパで、戦場で敵味方の区別なく傷ついた人を救う赤十字の活動を見ていました。明治十年(1877)の西南戦争のとき、佐野は博愛社を立ち上げて両軍の負傷者を救護します。これがのちの日本赤十字社で、佐野は初代の社長となりました。

軍艦全140隻の一覧を見る ›

  • URLをコピーしました!
目次