【藩名】
守山藩(水戸藩支藩)
【説明】
幕末期の元治元年(1864年)、「武田耕雲斎」「藤田小四郎」らの「天狗党の乱」が勃発し、守山藩でもこの乱に加わった者が多数いたため、多くの藩士が処罰されました。戊辰戦争が勃発すると、【現地取材】白河小峰城と白河口の戦いが「新政府軍」に突破され形勢が不利になった際、戦う事無くして降伏しました。
明治2年(1869年)の「版籍奉還」で最後の藩主「松平頼升」は守山藩知事となります。明治3年(1870年)には「松平頼之」が藩の政庁を常陸松川(飛地)に移したため、守山藩は「松川藩」と改められました。
翌明治4年(1871年)の「廃藩置県」で松川藩は他藩同様「廃藩」となり松川県となります。その後、磐城国内の旧藩領(守山)は白河県・磐前県を経て福島県に編入され、常陸国内の旧藩領(松川)は新治県を経て茨城県に編入されました。
水戸から分かれた家です
守山藩は水戸藩祖・徳川頼房の四男である松平頼元の家で、元禄十三年九月に嗣子の頼貞が陸奥と常陸のうちに二万石を与えられて成立しました。内高は二万九千石余あったとされます。参勤交代をしない定府の大名で、陸奥の守山のほかに常陸国の松川にも年貢収納の陣屋を置いていました。
天狗党で、藩士が処罰されています
元治元年の天狗党の乱では藩内にも動揺が広がり、天狗党に加わって処罰された藩士が少なくなかったと伝えられます。ただし何人がどのような処罰を受けたのかを示す資料は確認できませんでした。藩主の松平頼升は文久二年に父の死を受けて家督を継いだ人で、従四位下・侍従、掃部頭、大学頭を称しています。
同盟に入りながら、動きませんでした
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりましたが、出兵の延期を願い出て兵を動かしていません。慶応四年七月に新政府軍が守山へ迫ると戦わずに降伏し、そのあとは二本松藩への攻撃に加わりました。降伏後の守山陣屋は、会津攻略にあたる新政府軍の後方の拠点になっています。頼升は明治二年に藩知事となって賞典禄九千三百石を受けましたが、同年八月に病で隠居し、徳川斉昭の二十二男である頼之が跡を継ぎました。そして明治三年、頼之が藩庁を常陸の松川へ移したことで、守山藩は松川藩となります。
陣屋の跡は、住宅地です
守山陣屋の跡は水郡線の磐城守山駅の近くにあたりますが、いまは住宅地になっていて建物は残っておらず、道沿いに松の木が数本あるだけです。なお郡山市が平成二十八年十二月に史跡に指定した守山城跡は、これとは別の中世から織豊期にかけての城跡で、幅二十五メートルの堀跡と、長さ七十メートル・高さ六メートルの野面積みの石垣が残っています。混同しやすいので注意が要ります。
【守山藩・場所・アクセス】
〒963-1155 福島県郡山市田村町守山中町37
【守山藩地図】
本家・水戸藩との関係
守山藩は、御三家・水戸藩の支藩です。水戸徳川家の分家が二万石を領しました。
戊辰戦争では、守山藩は戦火を交えることなく新政府へ恭順しました。尊皇の水戸に連なる家として、無用な戦いを避けた形です。最後の藩主は松平頼升です。水戸徳川一門の支藩でした。

