松川藩の歩み
明治三年(1870年)、守山藩は役所を陸奥の守山から常陸の松川へ移しました。これにより松川藩が生まれ、守山藩はなくなります。守山藩は水戸徳川家の分家で、領地の多くがもともと常陸にあったための移転でした。ところが翌明治四年(1871年)、陣屋の物置から火が出て、強い北風にあおられ、藩の役所などの大半が焼けてしまいました。建て直しを進めたものの、十分に立ち直らないうちに廃藩置県となり、松川藩はわずか1年あまりで松川県に変わります。
松川県はその後、新治県をへて明治八年(1875年)に茨城県へ入りました。一方、磐城(福島県側)にあった旧藩領は、白河県・磐前県をへて福島県に入っています。
水戸徳川家ゆかりの藩
松川藩は、幕末から明治初めにかけて成立した藩で、藩主の松平頼之は、御三家・水戸徳川家の一族にあたる家柄でした。もともと陸奥国の守山藩を治めていた家が、藩庁を松川へと移すかたちで立藩したもので、水戸家につらなる由緒ある大名家です。
維新の転換期に生まれた藩
松川藩の成立は、まさに幕末維新という時代の大きな転換のさなかでした。しかし、藩庁を移してまもなく明治四年(1871年)の廃藩置県を迎え、藩そのものは短い期間で歴史を閉じることになります。激動の時代がもたらした藩の再編と消滅を象徴する、興味深い一藩です。
松川陣屋は、新しく建てたものではありません
守山藩の領地は陸奥の守山を中心とする二十六か村と、常陸の四十一か村に分かれていました。そのため守山と、常陸の成田村松川の二か所に年貢収納の役所が置かれ、どちらも陣屋と呼ばれていました。明治三年の移転は、その常陸側の役所を藩庁に格上げしたものです。所在地は現在の茨城県東茨城郡大洗町成田町で、涸沼を見下ろす標高二十五メートルほどの台地の端にあたります。
なぜ守山を離れたのか
理由は江戸定府の廃止です。守山藩は参勤交代をしない定府の大名でした。明治二年六月の版籍奉還で藩主が領地に住むことになったとき、頼之は陸奥の守山ではなく常陸の松川に住みたいと願い出て、許されています。改称は明治三年十二月のことでした。
藩主は、徳川慶喜の弟でした
松平頼之は安政五年六月の生まれで、明治二年八月に数えで十二歳(満11歳)で家督と藩知事を継ぎました。頼之自身が徳川斉昭の二十二男、つまり慶喜の弟で、養父の頼升は五代藩主・頼誠の三男です。頼升の代の守山藩は元治元年の天狗党の乱で多くの藩士が処罰され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりながら出兵の延期を願い出て動かず、新政府軍が迫ると戦わずに降伏しました。頼之は明治四年七月十四日の廃藩置県で松川県知事となり、明治六年八月に十六歳で亡くなっています。松川県は同年十一月十四日に新治県へ統合され、明治八年五月に利根川以北が茨城県へ入りました。陣屋の跡には曲輪と空堀が残り、大洗町が説明板を設けています。
額田から守山、そして松川へ
松川藩の松平家は、水戸藩初代・徳川頼房の四男で、徳川光圀の弟にあたる松平頼元に始まる家です。頼元は寛文元年(1661)に常陸の額田で二万石を分けられ(額田藩)、子の頼貞の代に陸奥の守山へ陣屋を移しました。それから百七十年後の明治三年(1870)、藩はふたたび常陸に戻って松川藩となります。水戸家の分家は、常陸から陸奥へ出て、最後に常陸へ帰ってきたことになります。
天狗党の戦いの舞台に近い陣屋
松川陣屋があった大洗・涸沼のあたりは、幕末の水戸藩の内乱の最も激しい戦いの舞台のすぐそばでした。元治元年(1864)、筑波山で挙兵した天狗党と、藩の実権を握った諸生党・幕府軍とのあいだで、那珂湊を中心に大規模な戦いが繰り広げられます(那珂湊の戦い)。大洗の祝町や磯浜の一帯でも戦闘が起き、多くの家が焼かれました。天狗党の一部は武田耕雲斎に率いられて西へ向かい、最後は越前の敦賀で降伏して、三百五十人あまりが処刑されています。
守山藩は陸奥に本拠を置きながら、常陸の松川にも役所を持っていたため、本家の水戸藩が内側から引き裂かれていくさまを、すぐ近くで見ることになりました。廃藩置県の直前、守山藩がわざわざ常陸の松川に移ったのは、こうした水戸家とのつながりの深さを物語っています。
家門・定府の守山松平家と、慶喜の弟
水戸の御連枝
守山松平家は水戸藩の御連枝で、家格は家門、江戸に常駐する定府の大名でした。表高は2万石ですが、実際の石高は2万9千石余りあったとされます。2代藩主の松平頼寛は江戸藩邸に藩校「養老館」を開き、号を黄龍として『菊経』などの著書を残した文人大名です。同じ御連枝の常陸府中藩と比べると、家の形がよく似ています。
七代続いた父子相続
守山松平家は頼之の前まで7代続けて父から子へ家を継いでおり、頼之が初めての外からの養子でした。養父の頼升は5代藩主・松平頼誠の三男で、文久2年(1862)に家を継ぎ、降伏後は新政府軍の二本松藩攻撃に加わっています。
頼之から喜徳へ
頼之は徳川斉昭の22男、つまり慶喜の弟で、明治2年(1869)に満11歳(数えで12歳)で養子に入りました。明治6年8月に頼之が亡くなると、実兄の松平喜徳が同月に跡を継ぎます。喜徳はかつて会津藩主・松平容保の養子だった人で、明治17年に子爵となりました。
考察:会津と水戸をつないだ兄弟
会津藩主の養子だった喜徳が、弟の跡を継いで守山松平家の当主になる。戊辰戦争で敵味方に分かれた家々が、明治になって斉昭の子どもたちを通じてつながり直していく姿は、維新の後始末の一つの形として興味深いものです。
松川藩をもっと詳しく
藩主が住まなかった守山陣屋
松川藩の前身である守山藩の藩庁は、陸奥の守山陣屋に置かれていました。場所は現在の福島県郡山市田村町守山で、JR水郡線の磐城守山駅の近く、戦国大名・田村氏の拠点だった守山城の西側にあたります。明治6年(1873年)の絵図では、敷地の西・北・南の一部を土塁で区切った、城に近いつくりだったことがわかります。
ただし、守山藩の歴代藩主は江戸小石川の藩邸に住み、守山に常住することはありませんでした。藩庁が松川へ移ったあと、守山陣屋は明治6年の廃城令で廃城となり、建物は残っていません。いまは住宅地になっており、道沿いに植えられた数本の松が当時の雰囲気を伝えています。
守山初代・頼貞と、広がった血筋
守山の地を与えられたのは、額田藩2代藩主の松平頼貞です。頼貞は寛文4年(1664年)生まれで、元禄6年(1693年)に父の頼元の跡を継ぎ、元禄13年(1700年)9月25日、5代将軍・徳川綱吉の命で額田から守山へ移されました。元文4年(1739年)には、尾張藩主・徳川宗春に蟄居を伝える使者を務めています。寛保3年(1743年)に三男の頼寛へ家を譲り、翌延享元年(1744年)に81歳で亡くなりました。
頼貞の子どもたちは、ほかの家にも次々と入りました。頼恭は讃岐の高松藩松平家を、頼済は常陸府中藩の松平家を、定賢は久松松平家を継いでいます。こののち、水戸本家の徳川治紀や斉昭の息子たちが養子に入るまで、水戸家の連枝4家のうち宍戸松平家を除く3家は、頼貞の血筋が占めることになりました。
明治の守山松平家—フランス留学と刀剣鑑定
明治6年(1873年)8月に頼之が亡くなり、兄の松平喜徳が跡を継ぎました。喜徳は明治9年(1876年)10月にフランス留学のため横浜を発ち、明治11年(1878年)6月に帰国しています。明治17年(1884年)7月8日に子爵となり、明治24年(1891年)6月3日、37歳で亡くなりました。墓は谷中墓地にあります。
喜徳の跡を継いだのは、宍戸藩主・松平頼位の三男、松平頼平です。頼平は安政5年(1858年)の生まれで、明治18年(1885年)9月に喜徳の養子となり、明治24年6月に家督を継ぎました。宮内省の御用掛を務め、時代考証と刀剣の鑑定にくわしい人として知られています。昭和4年(1929年)に亡くなり、家は次男の秋雄が継ぎました。斉昭の子から宍戸家の子へと、水戸家の一族のあいだで養子をやりとりしながら、守山松平家は昭和まで続いていきました。
2万石の軍役の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことが目安とされていました。これを守山藩・松川藩の表高2万石に当てはめると、およそ470人になります。ただし、この規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。また、守山藩は参勤交代をしない江戸定府の大名で、藩政も水戸藩の監督を受けていました。
場所・アクセス・地図
参考資料:Wikipedia日本語版「松川藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。



