| 夕顔丸 | |||
| 藩名 | 土佐藩 | ||
| 藩主 | 山内容堂 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 150馬力 | ||
| 写真 | 有(復元模型) | ||
■ 詳細
原名スーイリン(朱林)・長36間・幅4間3尺・659トン。1863年イギリスで建造され、1867年2月29日英国商人オールドより15万5千ドルで土佐藩が購入した蒸気船です。黄色の船体、3本マストに張られた帆、一番高いマストに翻る藩旗と船尾側には日の丸の旗がありました。
以後、大坂天保山に駐留して土佐国元と京都間の通信交通を助けました。坂本龍馬がこの船に便乗して京都へ向かう中、「船中八策」を練ったことは有名です。後に明治政府に献上され、太平丸と改称されました。
所属した土佐藩と幕末の動き
この汽船・夕顔(ゆうがお)丸を運用したのは、土佐藩(山内家)です。じつはこの船は、幕末史の大きな転換点にかかわっています。慶応三年(1867)、長崎から兵庫へ向かう夕顔丸の船上で、坂本龍馬が新国家の構想「船中八策」を後藤象二郎に語ったと伝えられるのです。大政奉還へとつながる青写真が、この船の甲板で形になりました。
土佐藩は幕末、藩主・山内容堂のもとで公武合体から大政奉還論へと動いた雄藩です。坂本龍馬や中岡慎太郎、後藤象二郎らを輩出し、龍馬が長崎で興した海援隊は土佐藩の外郭として海運と交易を担いました。戊辰戦争では新政府軍の主力の一つとして各地を転戦しています。夕顔丸は、土佐藩と幕末維新の物語を象徴する一隻です。
夕顔丸をもっと深く——「船中八策」は、この船で書かれたのか
洋銀十五万五千ドルの鉄船
夕顔丸は1863年、スコットランドのジョージ・ダンカン社で建造された「シューエイ・リーン」です。慶応三年二月、土佐藩がオールト商会を介して購入しました。価格は洋銀十五万五千ドル。
| 建造 | イギリス・スコットランド(1863年) |
|---|---|
| 旧名 | シューエイ・リーン |
| トン数 | 659トン |
| 船体 | 鉄製 |
| 推進 | スクリュー |
| 出力 | 155馬力 |
| 帆装 | 3本マストのバーケンティン |
| 購入価格 | 洋銀155,000ドル |
注目すべきは船体が鉄製だったことです。木造が主流だった当時の日本の艦船のなかでは、新しい部類に入ります。
ただし高い買い物が良い船とは限らませんでした。イギリスの外交官アーネスト・サトウがこの船に乗ったとき、ボイラーの不調で「二ノットしか出ない」と書き残しています。歩くほうが速いです。中古船を高値で買わされる構図は、幕末の藩の海軍にはつきものでした。
慶応三年六月の航海
その年の六月、長崎から兵庫へ向かう夕顔丸に、坂本龍馬と後藤象二郎が同乗しました。のちに「船中八策」が起草されたとされる、あの航海です。
「船中八策」は実在したのか
ここは正直に書いておきたい。船中八策の原本は現存しません。龍馬の自筆で残っているのは、慶応三年十一月の「新政府綱領八策」だけです。
研究者の青山忠正は2006年に「史料に基づいて論証されたことは一度もない」と指摘しました。知野文哉の研究では、その形成過程までたどれます。1896年の弘松宣枝による「建議案十一箇条」があり、1900年に坂崎紫瀾がこれを「八策」と呼び、1913年に「船中八策」という語が初めて現れ、1929年の平尾道雄以降に史実として定着していく——という流れです。
陸奥宗光や後藤象二郎の回想にも、成文化したとされる長岡謙吉の日記にも、該当する記述がありません。現在は後世の創作とする見方が有力である(ただし諸説あり)。
もっとも、龍馬と後藤がこの船に同乗し、新しい政体について語り合ったこと自体が否定されているわけではありません。何が話されたかを記録した史料がない、というのが正確なところです。船はありました。航海もありました。八か条の文書だけが、後から現れました。
岩崎弥太郎の船として
明治に入ると、夕顔丸は同じ土佐出身の岩崎弥太郎の商社に渡り、東京・大阪・高知の間に就航しました。のちに「太平丸」と改名され、明治十年の西南戦争にも従軍しています。1878年に庫船となり、1881年に難破しました。
土佐藩が政局のために買った船が、明治には海運業の元手になりました。いろは丸を沈めた海の同じ航路を、この船は商船として走り続けたことになります。
幕末軍艦一覧リスト

