神護丸【姫路藩 ブリガンチン型帆船 幕末軍艦】

神護丸
藩名 姫路藩
藩主 酒井忠宝
船種 ブリガンチン型帆船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図
神護丸のイメージイラスト
神護丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(ブリガンチン型帆船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

元々は姫路藩内の漁師が漂流中にアメリカ船に救助され、その漁師たちが帰国した際に洋式船を建造させました。

速鳥丸、金花丸と続き、文久三年(1863年)六月に「神護丸」は建造されました。長さ18間(32.7m)・幅4間(7.3m)・千二百石積み、帆装形式はスクーナーとされてきましたが、姫路市の資料はブリガンチン型とします。

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姫路藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている姫路藩の艦船は三隻で、内訳は帆船が三隻です。

  • 神護丸(この記事)/ブリガンチン型帆船
  • 金花丸/スクーナー船
  • 速鳥丸/スクーナー船

目を引くのは、蒸気船ではなく帆船が中心だという点です。蒸気船は高く、燃料と機関の手当ても要ります。帆で動く船を揃えるところから始めた藩も、少なくありませんでした。

姫路藩は譜代の名門として佐幕の立場をとり、藩主・酒井忠績は幕府の大老まで務めました。そのため藩内の勤皇派は弾圧され、家老・河合惣兵衛ら多くの藩士が命を落としています。戊辰戦争では朝敵とされましたが、備前岡山藩らに囲まれると恭順し、多額の献金で藩の存続を許されました。神護丸は、佐幕から恭順へと追い込まれた姫路藩の一隻です。

船型は、スクーナーではなくブリガンチン型とされます

姫路市の資料は、神護丸を「ブリガンチン型といわれる西洋型帆船」としています。ブリガンチンは、前のマストに横帆、後ろのマストに縦帆を張る二本マストの帆船です。

絵馬が残っています

姫路市の資料によれば、この船は文久三年六月に飾磨津で造られ、藩の御用船であると同時に商船でもあって、国産の木綿や米、塩を運びました。慶応三年九月には姫路藩の御船手組の四人が恵美酒宮天満神社へ絵馬を奉納しており、それが市の文化財として今に伝わります。船の姿を描いた同じ時代の絵が残っているというのは、幕末の藩船としては幸運なほうです。

建造に関わった漂流民の数

アメリカ船に助けられて帰国した姫路藩の漁師は、四人だったと伝わります。ただし一隻目の速鳥丸について調べた範囲では、建造に加わった漂流民は清太郎と源次郎の二人で、のちに士分に取り立てられて本荘善次郎、山口洋五郎と名を改めました。四人なのか二人なのか、資料によって数が違います。

最期

明治六年一月、品川を出たあと遠州灘で時化に遭い、伊豆の子浦の海岸で壊れました。十年ほど働いた船ということになります。

神護丸を船の型と持ち主から読む

神護丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「ブリガンチン型帆船」。前のマストが横帆、後ろが縦帆の「ブリガンチン型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している姫路藩の船は、この神護丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は3隻です。同じ姫路藩の船には、金花丸(スクーナー船)、速鳥丸(スクーナー船)があります。

持ち主の姫路藩—甲子の獄

譜代の大藩・姫路

神護丸を造った姫路藩(酒井家十五万石)は、徳川家の譜代の名門・酒井雅楽頭家の藩です。それでも幕末には藩内に尊王攘夷派の藩士たちがいて、長州や京都の志士たちと結んで活動していました。

甲子の獄

神護丸ができた翌年の元治元年(1864)、禁門の変で長州が敗れると、藩は尊攘派の藩士たちを一斉に捕らえ、河合惣兵衛らを処刑しました。この年の干支にちなんで「甲子の獄」と呼ばれます。譜代の藩として幕府に忠実であろうとした姫路藩は、藩の中の攘夷派を厳しく取り除いたのです。

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