| 金花丸 | |||
| 藩名 | 姫路藩 | ||
| 藩主 | 酒井忠宝 | ||
| 船種 | スクーナー船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

「速鳥丸」の建造後、安政六年六月(1859年7月頃)に「金花丸」、文久三年六月(1863年7-八月)には「神護丸」が建造されてました。金花丸は小型の二檣スクーナーで、要目は長さ8間(14.5m)・幅1間4尺(3.0m)・百石積みです。
姫路藩は、外国人を雇わずに船を造りました
金花丸の前に造られた速鳥丸は、藩校の教授で国学者の秋元安民が安政三年に藩主へ建議したことから始まりました。実際の建造には、海を漂流して外国船に拾われた経験を持つ清太郎と源次郎という二人が加わっており、二人はのちに士分に取り立てられて本荘善次郎、山口洋五郎と名を改めています。外国人の技師を雇わず、漂流民の見聞と藩士の建議で洋式の船を仕立てたわけです。速鳥丸は安政四年十一月に御津の造船所で起工し、安政五年六月二十四日に進水、その半月あまりのちには飾磨沖での試験航海を終えました。初めての航海では江戸の品川沖まで十日で着き、米千俵と木綿三十個、石百石、乗客十八人を運んでいます。明治五年までに八十回の航海を重ねました。
三隻目の神護丸
金花丸の四年のちに造られた神護丸については、姫路市に資料が残っています。文久三年六月に飾磨津で造られたブリガンチン型の西洋型帆船で、藩の御用船であると同時に商船でもあり、国産の木綿や米、塩を運びました。慶応三年九月には姫路藩の御船手組の四人が恵美酒宮天満神社へ絵馬を奉納しており、それが今も市の文化財として伝わります。十八間・四間、千二百石積みというこの船は、明治六年一月に品川を出たあと遠州灘で時化に遭い、伊豆の子浦の海岸で壊れました。
三隻のなかでは、いちばん小さな船です
金花丸は八間・一間四尺、百石積みの小舟で、速鳥丸の四百五十石積み、神護丸の千二百石積みと比べるとずっと小さく、目立つ働きも伝わっていません。それでも姫路藩が安政から文久にかけて続けて造った三隻の二隻目にあたり、この藩に自前で船を造る力があったことを示す一隻です。なお速鳥丸の大きさは資料によって割れており、『播州郷土資料』は十三間三尺で四百五十石積み、『大日本線路細見録』は十四間二尺で五十八トン余り、勝海舟の『船譜』は十五間で四百五十石積みとしています。
朝敵となった姫路藩
藩主の酒井忠惇が徳川慶喜に従って大坂を退いたため、姫路藩は朝敵とされました。備前岡山藩が追討の先陣として押し寄せ、景福寺山に大砲を据えて城へ撃ち込みます。慶応四年一月十七日、藩主の留守を預かる家臣たちの判断で城は戦わずに明け渡され、岡山藩の占領下に入りました。三月七日に忠惇は官位を取り上げられ、五月二十日には蟄居を命じられて、同じ日に上野伊勢崎藩から十五歳の酒井忠邦を迎え、軍資金として十五万両を新政府へ差し出しています。なお忠惇の兄の酒井忠績は、慶応元年二月一日に大老となった人で、江戸幕府で最後の大老にあたります。
同じ名前の船について
幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、金花丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。
- 金花丸(佐賀藩・輸送船・蒸気内輪)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
金花丸を船の型と持ち主から読む
金花丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー船」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している姫路藩の船は、この金花丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は3隻です。同じ姫路藩の船には、神護丸(ブリガンチン型帆船)、速鳥丸(スクーナー船)があります。
持ち主の姫路藩の幕末をふり返ると、藩主酒井忠惇が老中として慶喜に従い「朝敵」に。城を明け渡して恭順。金花丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の姫路藩—河合寸翁の財政改革
木綿で立て直した藩
姫路藩は、幕末の少し前、江戸時代後期に家老・河合寸翁(道臣)が行った財政改革で知られます。寸翁は姫路の特産の木綿を藩の専売とし、江戸へ直接運んで売ることで、七十万両を超えた藩の借金を返していきました。藩校・仁寿山黌を開いて人材を育てたことでも知られます。
船の必要
木綿を江戸へ運ぶには、船が欠かせませんでした。姫路藩が飾磨津などの港を整え、のちに金花丸のような洋式の船をみずから造るようになった背景には、こうした海の交易で藩を支えてきた歴史がありました。



