| 駿明丸 | |||
| 藩名 | 加賀藩 | ||
| 藩主 | 前田慶寧 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
■ 詳細
イギリス製の帆船です。
慶応3年5月、長崎にて加賀藩が購入しました。
所属した加賀藩と、藩主・前田慶寧
この軍艦・駿明丸を運用したのは、加賀藩(金沢藩・前田家)です。幕末の加賀藩を率いたのが、藩主・前田慶寧(よしやす)でした。
慶寧は、元治元年(1864)の禁門の変の際に、長州に同情的な態度をとったとして一時謹慎に追い込まれるなど、難しい立場に置かれました。百万石の巨藩ゆえに動きは慎重でしたが、最終的には新政府方につきます。駿明丸は、その去就に苦しんだ大藩・加賀の一隻でした。
幕末軍艦一覧リスト
この船名の裏づけが、見つかりません
駿明丸という名で調べても、加賀藩の船として記した資料を見つけられませんでした。いっぽう、加賀藩の洋式軍艦を論じた研究には「駿相丸」という船が出てきて、箱館戦争のときに榎本の艦隊へ一時捕らえられたと書かれています。駿明丸は、この駿相丸の書き誤りである見込みがあります。ただし確かめられてはいませんので、当サイトの記述はそのままに、そういう見方があることを書き添えておきます。
百万石の藩が持っていた船
加賀藩が幕末に買い集めた船で、名前と素性の分かるものが五隻ほどあります。はじめの一隻が発機丸で、原名をシティ・オブ・バンゴーといい、文久二年の暮れに横浜で六万五千両で買いました。二百五十トン・七十五馬力のこの船は慶応元年に大きく壊れ、直しきれずに錫懐丸と名を改めています。慶応元年十月には長崎で李白里丸を十一万二千ドルで買いました。こちらはサー・ハリー・パークスという原名の五百四十三トン・百十馬力の船で、トーマス・グラバーの勧めによる買い物でしたが、北越戦争で兵を運んだのち、明治元年八月に越後の松ヶ崎沖で嵐に遭って座礁し沈みました。慶応二年五月には長崎で一万二千ドルの啓明丸を買っており、この船も同じ年の十二月に常陸の那珂湊で壊れています。
七尾の軍艦所と、梅鉢海軍
加賀藩は文久二年、能登の七尾に軍艦所を設けました。石川県の資料も、ペリー来航を受けて沿岸に台場を築いたのと同じ流れでこの軍艦所が造られたと記しています。敷地はおよそ六万五千平方メートルで、造船所と製鉄所を備え、機械や船具を作り直す場でもあり、乗員の稽古の場でもありました。買い入れた船を七尾湾に浮かべ、白地に紺の剣梅鉢という前田家の紋の船印を掲げたことから、この藩の海軍は「梅鉢海軍」と呼ばれます。明治二年には軍艦所のなかに語学所が置かれ、イギリス人のオズボーンを招いて英語と西洋の事情を教えました。ここで学んだ者のなかに、のちのタカジアスターゼの高峰譲吉、化学者の桜井錠二、海軍大将となる瓜生外吉がいます。語学所は一年ほどで閉じられ、軍艦所も明治四年に閉じられました。
藩主・前田慶寧の謹慎
この記事にもある前田慶寧の謹慎は、元治元年の禁門の変のときのことです。慶寧は御所の警備のため上洛しましたが病がちとなり、長州と幕府のあいだを取りもとうとして果たせず、病を理由に京を離れて近江にとどまりました。これが長州へ内通したのではないかと疑われ、父の斉泰の手で金沢での謹慎を命じられて、側近も多く処罰されています。赦されたのは翌慶応元年の四月で、家督を継いだのは慶応二年四月四日でした。

