岐阜県中津川市。木曽川の右岸に、標高四百三十二メートルの山があります。川からの高さは百七十メートル。その頂に、幕末まで城がありました。

苗木城です。
石垣を積むのではなく、山にもともとある巨岩を、そのまま建物の土台にしています。岩を削り、岩に柱を立て、足りないところだけ石を積む。近づくほど、この城が普通ではないことがわかってきます。
一万石で、城を持っていた藩です
ここを治めていたのは苗木藩・遠山家。表高は一万二十一石でした。一万石というのは、大名として最小の部類です。普通なら陣屋——つまり屋敷を構えるだけで、城は持てません。ところが苗木藩は城を持っていました。幕末の時点で、一万石クラスでありながら城を持っていた藩は、全国でここだけだったとされます。

入口に、かつての姿を復元したCGの看板が立っています。岩の上に、建物が段々に積み重なっています。「山城ベストランキング第1位」とありました。続日本100名城にも選ばれています。
登っていきます

大門跡。城の玄関口にあたります。左手の岩の壁が、そのまま城の防御になっています。

両側を石垣に挟まれた道。この石垣は、幕末まで使われていたものです。

風吹門跡。石畳が残り、その先に巨岩が立ちはだかっています。門の礎石もそのままです。

大矢倉跡。ここが苗木城の見どころだと思います。左の巨大な岩と、右の石垣が、継ぎ目なくつながっています。岩を避けるのでも、削り取るのでもなく、岩を石垣の一部として使っています。この城を築いた人たちは、山と喧嘩しないことに決めたのだとわかります。

駈門跡から。石垣の向こうに山並みが広がります。

そして頂上へ。

天守跡には、展望台が組まれています。かつての建物の柱穴を利用して、当時と同じ位置に床を張ったものです。

離れて見ると、この城がどういうものだったかがよくわかります。城が山に建っているのではなく、山そのものが城になっています。
将軍家の朱印状を、蔵に納めていました
城内を歩いていて、ひとつの説明板に目が止まりました。

御朱印蔵跡。切石できっちりと積まれた石垣の上に建っていた蔵で、将軍家から代々与えられた領知目録や朱印状などの重要な文書、そして刀剣類が納められていました。年に一度、必ず虫干しをしたそうです。蔵への出入りには梯子を使ったとあります。
添えられている絵図の説明を見てください。「苗木城内郭間取絵図(幕末頃)」。幕末のこの城の間取りが、絵図として残っているということです。

もうひとつ、足軽長屋跡の説明板。竹門のすぐ西側の平地に、表方の足軽が出勤したとき必ず立ち寄る長屋がありました。小頭部屋や稽古場など三、四棟あったといいます。足軽たちはまずここに立ち寄り、それから城内のそれぞれの役所へ出向いた。一万石の城にも、毎朝人が出勤していたわけです。
この城の主は、幕府の若年寄でした
幕末の藩主は遠山友禄(一八一九〜一八九四)。一万石の小藩の殿様ですが、経歴が普通ではありません。
- 安政七年正月——奏者番
- 文久元年七月——若年寄
- 文久二年八月——生麦事件で、幕府の代表としてイギリス代理公使ニールに陳謝に赴く
- 元治元年十月——再び若年寄
- 慶応元年——大坂警備と第二次長州征伐に参加
生麦事件の後始末に出ているのです。薩摩藩士がイギリス人を斬った、あの事件です。一万石の藩主が、幕府を代表して外国公使に頭を下げに行きました。ただしその代償もありました。長州征伐への出兵が、藩の財政を大きく傾けます。
そして、いち早く官軍につきます
慶応四年(一八六八年)一月、鳥羽・伏見で幕府軍が敗れました。友禄の動きは早いものでした。帰国願を出して二月九日に苗木城へ戻り、二月二十一日には岩倉具視に勤王の意を伝えて官軍に加わっています。幕府の若年寄を二度務めた人が、鳥羽・伏見からわずか一か月半で新政府側に立ったことになります。
その後、苗木藩は信濃の善光寺へ出兵し、さらに甲府城の守備につきました。小栗忠順が主戦論を唱えて罷免されたのが、ちょうど同じ一月です。同じ幕臣でも、選んだ道はこれだけ違いました。
そして、領内の寺を一つ残らず壊しました
ここからが、苗木藩がいまも語られる理由です。明治三年(一八七〇年)、苗木藩は領内のすべての寺院を廃しました。
主導したのは、平田国学の門人でした
中心にいたのは青山景通(一八一九〜一八九一)。苗木藩の下級藩士で、嘉永五年(一八五二年)に三十四歳で平田銕胤の塾に入門した、東濃地方で最初の平田門人です。明治元年には新政府の神祇官に登用されました。その長男・青山直道が、明治二年に二十四歳で藩の最高位である大参事に就きます。父子で藩政に平田国学を持ち込みました。
そして決定的だったのが藩主です。遠山友禄自身が、明治三年に臨済宗から神道へ改宗しました。
実行の記録
経過は記録に残っています。
- 明治三年八月十五日——藩が領内に廃仏毀釈の実行を通知
- 同年九月二十七日——管内十五か寺の廃寺と、寺僧の還俗を申し付け
- 同年十月——藩知事・遠山友禄自身が村々を巡り、実施を強制
- 明治四年三月——読み仮名を振った平易な布達書を発行
藩の指示は、こういう文言でした。
堂塔並石仏木像等取払焼捨或ハ掘埋可申事
堂も塔も石仏も木像も、取り払って焼き捨てるか、埋めよ。
対象は寺だけではありませんでした。路傍の石仏、そして各家の位牌までが廃棄させられています。墓石に刻まれた法名も削られました。藩主が巡村した際には、仏壇を土足にかけたうえで焼き捨てさせたという記録も残っています。
廃寺の数には、二つの説があります
中津川市の苗木遠山史料館は「藩内にあった十五の寺院をすべて取り壊した」としています。一方で十七か寺以上とする資料もあります。公式の届け書は十五か寺、実際にはそれ以上——という整理が妥当なようです。住職たちは還俗を強いられました。そのなかで一人だけ、雲林寺の十七世・剛宗宗戴が還俗を拒んでいます。
なぜ、そこまでやったのか
藩校・日新館では、こういう誓詞が朗読されていました。「祭政一致はわが皇国の大道なり」。明治四年には藩内の平田門人が五十六人に増えています。中津川市は「ほとんどの藩民が神道に改宗した」と記しています。
ただし領民が全員従ったわけではありません。仏像を密かに隠したり、藩の外の知人に仏壇を預けたりした記録が残っています。坂下村の長昌寺にあった達磨大師像は観音堂へ、阿弥陀仏は法界寺へと、こっそり運び出されました。
いま、日本で唯一「寺のない村」があります
この政策の帰結が、いまも残っています。旧苗木藩領だった岐阜県加茂郡東白川村は、日本で唯一、村内に寺院が一つも存在しない自治体です。葬式は神式で行われるのが通例だといいます。百五十年以上前に一つの藩が決めたことが、いまも村の暮らしの形を決めています。
傷つけられたまま残る石仏
現地には、当時の傷を残すものがあります。「くろぜ道地蔵」——中津川市高山の旧黒瀬街道沿いにある地蔵です。廃仏毀釈のときに首のところで二つに割られ、のちに修復されました。田瀬の観音堂の敷地には、半分に割られた石碑が二つ残っています。彫られた字が読めないようにされたものです。
対照的なのが付知の宗敦寺です。ここは尾張藩領だったため、廃仏毀釈の影響を受けずに残りました。藩の境が、そのまま寺の生死を分けたことになります。
城は、売り払われました
寺を壊した藩は、自分の城も手放します。明治三年閏十月、藩庁が城から元雲林寺へ移り、十一月には藩校の日新館へ。明治四年一月に官員が旧城を見分し、二月上旬から「城の毀し売り」が始まりました。値段の記録が残っています。
- 本丸一円——二十両
- 具足櫓一か所——三両二分ほど
- 門一か所——五両から十五、六両ほど
- 下広間——十五両/上広間——七両
幕末からの多額の借金を返すためでした。家臣たちも買い手として参加しています。
天守を買った家臣の話
ここに、ひとつ気の毒な話が残っています。家臣の紀野亀五郎維益という人が、天守を買いました。ところが——取り壊すのに、買った値段の数倍の費用がかかったのです。のちに本人が「失敗中の失敗」と悔いたと伝えられます。こうして明治四年のうちに建物はすべて消え、石垣だけが残りました。いま私たちが歩いているのは、その石垣です。
そのあとの遠山家
明治四年七月の廃藩置県で苗木県となり、同年十一月に岐阜県へ統合されました。遠山友禄は華族(子爵)となって東京へ移り、明治二十七年に没しています。家禄の全額を窮民救済と藩の経費に充てた、とも伝えられます。廃仏毀釈を主導した青山景通の三男・青山胤通は、のちに医学博士・男爵となりました。
歩いてみて
正直に書きます。登っている間、廃仏毀釈のことは忘れていました。岩と石垣が一体になった大矢倉、風の抜ける門跡、天守跡から見渡す恵那の山並み——ただただ、すごい城だと思いながら歩いていました。
ですが説明板を読み、あとで調べて、見え方が変わりました。将軍家の朱印状を蔵に納め、年に一度虫干しをしていた藩です。その藩主が幕府の若年寄を務め、生麦事件でイギリス公使に頭を下げ、そして鳥羽・伏見の一か月半後には官軍に加わりました。さらにその二年後、領内の寺を一つ残らず壊し、自分の城を二十両で売りました。
この山の上で、それだけのことが起きています。いま残っている石垣は、壊されずに残ったのではなく、売れなかったから残ったものです。
訪ねるなら
- 苗木城跡——岐阜県中津川市苗木。国の史跡(昭和五十六年指定、十五万六千七百七十四平方メートル)。続日本100名城
- 中津川市苗木遠山史料館——中津川市苗木2897-2(城山の入口)。廃仏毀釈の資料を展示しています。苗木城の大手門の扉と柱も。九時半から十七時、月曜休館、入館料330円
- 苗木遠山家廟所——廃寺となった雲林寺の跡地。歴代藩主の墓が残り、中津川市の史跡です
- くろぜ道地蔵——中津川市高山の旧黒瀬街道沿い。首を割られたあと修復された地蔵
- 宗敦寺——中津川市付知。尾張藩領だったため無傷で残った寺
登り口から天守跡までは、ゆっくり歩いて片道二十分ほどです。足元が岩と石垣なので、歩きやすい靴で。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の説明板「御朱印蔵跡」「足軽長屋跡」「風吹門跡」ほか
- 中津川市 苗木遠山史料館の各解説(苗木藩と廃仏毀釈/苗木藩と国学/苗木城の解体/傷つけられた石仏と石碑)
- 岐阜県「苗木城跡」/東白川村「東白川村の廃仏毀釈」
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