| 観光丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー級コルベット | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 15門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 150馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
1850年オランダ・フレッシンゲン建造しました。原名は「スムービング」で、1855年にオランダ国王から幕府に寄贈されました。屡々佐賀藩や神戸海軍操練所に練習艦として貸与されました。明治元(1868)年新政府に上納されたが、船体が老朽化していたので石川島造船所に係留し、解体されました。
オランダ国王が贈った日本初の蒸気軍艦「観光丸」
観光丸は、もともとオランダの軍艦「スームビング号」で、1855年(安政2年)にオランダ国王ウィレム3世から幕府へ贈られた、日本にとって初めての本格的な蒸気軍艦です。外輪(パドル)で進む蒸気船で、黒船来航の衝撃さめやらぬ日本に、西洋式海軍の第一歩をもたらしました。
長崎海軍伝習所の練習艦として
観光丸は、長崎に開かれた海軍伝習所の練習艦として使われ、勝海舟をはじめとする幕臣や諸藩の伝習生が、この艦でオランダ人教官から航海術・砲術・運用術を学びました。のちに日本海軍を担う多くの人材が、まさにこの艦の甲板で育まれたのです。幕府海軍にとどまらず、日本の近代海軍の原点ともいえる存在でした。
観光丸をもっと深く——「観光」という言葉は、この船から広まった
オランダ国王からの献上品
観光丸は買った船ではありません。1853年にオランダのフリシンゲンで竣工した「スームビング号」が、安政二年(1855年)、オランダ国王ウィレム三世から十三代将軍・徳川家定へ献上されたものです。返礼として、狩野派の御用絵師が描いた金屏風十双が贈られました。
時期を考えると、この贈り物の意味がよく分かります。ペリーが浦賀へ来た翌年です。二百年にわたって日本との窓口を独占してきたオランダは、その地位を失いつつありました。軍艦の献上は、失いかけた関係を立て直すための一手でもありました。のちに蟠龍丸をイギリスが献上したのも、同じ競争の一環です。
要目——資料が割れている
観光丸の要目は、実は資料によってかなり食い違います。トン数は四百トン説から七百八十トン説まであり、備砲数も六門説と十五門説があります。確かなのは、木造の外輪式で、三本マストのスクーナー型コルベットだったという点です。
幕末の船は、記録そのものが整っていないものが多いです。所属が藩から幕府へ、幕府から新政府へと移るたびに帳簿の書式も変わり、途中で失われます。数字が確定しないこと自体が、この時代の記録の性格を表しています。
日本人が本格的に乗り組んだ、最初の蒸気軍艦
献上された観光丸は、長崎海軍伝習所の練習艦になりました。ペルス・ライケンら蘭人教官のもとで、勝海舟や矢田堀景蔵ら伝習生が実地の訓練を受けています。日本人が本格的に運用した最初の蒸気軍艦です。
安政四年には、矢田堀景蔵の指揮で長崎から江戸まで航海しました。日本人が蒸気船を動かして長距離を走った、ごく初期の例にあたります。のちに咸臨丸が太平洋を渡れたのも、この船で積んだ経験があってのことでした。
万延元年からは佐賀藩に貸し出され、元治元年に神戸で幕府へ返されています。佐賀が幕末屈指の海軍力を持つに至った土台の一部も、この船にあります。
「観光」の語源
艦名の観光丸は、『易経』の「観国之光」——国の光を観る——から採られています。
現代の日本語で旅行を指す「観光」という言葉は、ここから広まったとされます。海外旅行の広告に並ぶあの二文字が、幕末にオランダから贈られた軍艦の名前に由来しています。
百三十年後、二度目の来日
慶応四年、観光丸は朝廷に献上されて横須賀に係留され、明治九年に解体された(慶応四年に廃船とする説もある)。
ところが話には続きがあります。1987年、アムステルダムの海事博物館に残っていた設計図をもとに、オランダの造船所で復元船が建造され、長崎へやってきました。機関はディーゼルだが、外観は当時のままです。オランダから贈られた船が、百三十年ののちに、もう一度オランダから日本へ渡ってきたことになります。
幕末軍艦一覧リスト

