【藩名】
山形藩
【説明】
幕末時の山形藩は周辺の「米沢藩」「仙台藩」とともに「奥羽越列藩同盟」に加わったが、同盟の主要な藩(米沢藩・仙台藩)が降伏すると山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏しました。

2代藩主「水野忠弘」は時に13歳と若年だったため、分家出身で当時26歳の家老「水野元宣」が一切の責任を負って処刑されました。明治3年(1870年)近江国朝日山藩に5万石で転封となり、以後は新政府軍直轄の天領となったため山形藩は廃藩となりました。
出羽の要地・山形城
山形藩は、出羽国村山郡山形(現在の山形県山形市)に置かれた五万石の藩で、東北屈指の名城・山形城を居城としました。幕末の藩主・水野家は、天保の改革を主導した老中・水野忠邦を出した家柄で、のちに浜松から山形へと転じてこの地を治めました。かつては最上義光のもとで大いに栄えた山形の地を、幕末まで受け継いだ藩です。
奥羽越列藩同盟から恭順へ
戊辰戦争において山形藩は、東北・北越の諸藩が結んだ奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と対峙しました。しかし、盟主格であった米沢藩・仙台藩があいついで降伏すると、山形藩もこれにならって恭順します。東北の諸藩が新政府に抗いながらも力尽きていった、戊辰戦争の縮図を映す藩の一つです。
五十七万石から五万石へ、落ちていった城
東日本随一の広さの城が、残りました
山形城は延文元年(1356年)に斯波兼頼が築き、十一代城主の最上義光が現在の城郭の原型をつくりました。霞に隠れて見えなかったという伝えから霞ケ城とも呼ばれます。三ノ丸の周囲は六千五百メートル、出入り門は十一。この十一の門を結ぶと「吉」の字になることから「吉字の城」とも言われました。全体で七十万坪、江戸城を除けば東日本で随一の広さの平城です。
ところがこの城は、藩の縮小とともに持て余されていきます。慶長六年(1601年)に最上義光は関ヶ原の功で庄内三郡と由利郡を加えられて五十七万石の大大名になりました。それが元和八年(1622年)、義俊の代に最上騒動と呼ばれる家中の争いを理由に改易されます。
譜代大名の左遷地になりました
そこからの石高の落ち方が、この藩の性格をよく表しています。鳥居忠政が二十二万石、保科正之が二十万石、松平家が十五万石。そして寛文八年(1668年)、奥平昌能のときにはじめて十万石を割り、九万石余になりました。延享三年(1746年)の松平乗佑で六万石、そして弘化二年(1845年)に水野家が入って五万石になります。
この下落について、東北の外様雄藩を牽制する重要な役目を担っていた山形藩が、奥平家の転封を境に譜代大名の実質的な左遷地になったという見方があります。所領が大きく減ったのもそのためだ、と。最上家の改易から二百四十年余りのあいだに、十二人の大名が入れ替わりました。城はそのあいだに、かなり荒れていったと伝えられます。
天保の改革の失敗が、この藩を作りました
五万石で入った水野家の当主、水野忠精は天保三年(1832年)の生まれで、天保の改革を行った水野忠邦の長男です。弘化二年(1845年)九月に遠江浜松藩主となり、その年の十一月には出羽山形へ移されました。父の改革の失敗にともなう左遷です。浜松から山形へ、しかも石高は半減以下。この転封そのものが処分でした。
それでも忠精は幕政に戻ります。嘉永六年(1853年)に奏者番、安政五年(1858年)に寺社奉行を兼ね、文久二年(1862年)に老中となりました。老中在任は慶応二年(1866年)まで。元治元年(1864年)には老中首座を務めています。父が幕政を握って失脚した藩の当主が、二十年後に同じ老中の座にいたことになります。横須賀製鉄所の設立協約に調印したのも、この人です。慶応二年九月に隠居しました。
十三歳の藩主と、二十六歳の家老
跡を継いだ水野忠弘は安政三年(1856年)の生まれで、慶応二年(1866年)に家督を継いだとき十歳でした。戊辰戦争のとき、忠弘自身は新政府を支持していたと伝えられますが、国元は奥羽越列藩同盟に加わってしまいます。藩主は江戸におり、国元が別の判断をした。慶応四年九月十七日、山形藩は新政府軍に降伏しました。忠弘は十三歳です。
戦後処分で全責任を負ったのは、首席家老の水野元宣でした。天保十四年(1843年)の生まれで、分家の出身。降伏の翌年、明治二年(1869年)五月二十日に処刑されています。二十七歳でした。十三歳の藩主を守るために、二十六歳の家老が首を差し出した。幕末の東北の藩で繰り返された光景です。
山形に、藩がなくなりました
明治三年(1870年)七月、水野家は近江国の朝日山へ五万石で移されます。山形の地から藩主がいなくなりました。移された先の朝日山藩は、明治三年七月から明治四年七月までのおよそ一年しか存在しなかった藩です。忠弘は明治十七年(1884年)に子爵となり、明治三十八年(1905年)に没しました。
藩がいなくなったあとの山形を作ったのは、県令の三島通庸でした。明治九年(1876年)八月二十一日、山形県・置賜県・鶴岡県が統合されて統一山形県が成立し、同じ日に三島が初代県令に任じられます。二十三か所の新道を開き、六十五か所に橋を架け、栗子隧道や関山隧道を掘り、明治十年に県庁舎、明治十一年に済生館と師範学校を建てました。「土木県令」と呼ばれた強権的な手法は、のちに福島事件や加波山事件を招くことになります。
紅花と青苧の町でした
山形の富を支えたのは農産物でした。元禄年間の役金対象額でみると、紅花が四百から五百駄、青苧が約千駄。近江商人が蚊帳や麻布、木綿を運び込み、帰りに紅花と青苧を京都や奈良へ持ち出しました。最上川の舟運で上方とつながっていたため、山形は武士より商人が優位な町として発展します。藩主が二百四十年で十二回替わっても町が続いたのは、町の富が藩に依存していなかったからでもあります。
城跡は昭和六十一年(1986年)に二ノ丸全体が国の史跡となり、翌年に十日町三ノ丸土塁跡が追加指定されました。いまは霞城公園としておよそ三十五・九ヘクタール。二ノ丸東大手門は平成三年(1991年)に伝統的な城郭建築の様式にのっとって木造で復原され、本丸一文字門の高麗門は平成二十五年(2013年)七月に完成しています。園内には最上義光歴史館があります。
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