島原藩/松平家6万5千石:松平忠和 島原の乱を経て幕末には新政府軍に属し秋田や盛岡まで参戦した島原藩

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島原藩の歩み

戦国時代の島原は、有馬氏の領地でした。キリシタン大名として知られる有馬晴信は、関ヶ原の戦いで東軍につき、領地をそのまま認められます。しかし慶長十七年(1612年)、「岡本大八事件(旧領の回復を餌に、岡本大八が晴信から多額の金品をだまし取った事件)」により甲斐国都留に幽閉の上、切腹に処されました。

島原藩/場所・アクセス・地図 松平家6万5千石:松平忠和 島原の乱を経て幕末には新政府軍に属し秋田や盛岡まで参戦した島原藩【幕末維新写真館】

晴信はのちに事件を起こして処罰されますが、子の直純は父とは疎遠で、幕府とも近い関係にあったため、罪は及ばず父の領地を継ぐことができました。その直純も慶長十九年(1614年)、加増されて日向の県(延岡)へ移ります。有馬氏が転封されたあと、元和二年(1616年)に元筒井家家臣の松倉重政が島原の領主となりました。しかし、子の勝家の代に有名な「島原の乱」が勃発し、勝家はその責任を問われて改易されてしまいます。島原・天草一揆のあと、徳川家譜代の家臣・高力忠房が遠江浜松から四万石で入りました。忠房の仕事は、一揆で人がいなくなり荒れ果てた島原を立て直すことでした。

農業の立て直しに知恵をしぼり、よその土地から人を呼び寄せて村に住まわせるなどして、島原を復興させています。ところが跡を継いだ高力隆長は、藩の仕組みづくりを急ぐあまり無理な政治を重ね、幕府にとがめられて寛文八年(1668年)に領地を取り上げられました。

かわって、翌寛文9年(1669年)に、丹波の福知山から深溝松平家の松平忠房が六万五千石で入ります。松平家が5代続いたあと、寛延二年(1749年)に下野宇都宮の戸田忠盈が七万七千石で入り、入れ替わりに松平家は宇都宮へ移りました。

その後、戸田氏と松平氏との間で領地交代が一度あったが最終的には松平氏が8代にわたって島原を支配し続けました。明治四年(1871年)の廃藩置県を受けて島原藩は島原県となり、その後、長崎県に編入されました。

幕末の島原藩は、文久三年(1863年)に海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制ではなく、時代遅れの軍制でした。島原藩最後の藩主「松平忠和」は慶喜の実弟だったことから、元治元年(1864年)の第一次長州征討には幕府方として参加し、慶応二年(1866年)の第二次長州征伐にも参加しました。

ところが、忠和の佐幕的な行動は尊王攘夷派である下級武士の不満を招き、一部の過激な尊攘派藩士が脱藩して「天誅組の乱」や「天狗党の乱」に参加しています。慶応元年(1865年)八月十三日には「伊東虎之助」らの過激派が藩の中老「松坂正綱」を襲って殺し「激烈組」という尊王攘夷運動を起こすほどの内紛が起こりました。

慶応四年(1868年)一月からの「戊辰戦争」では新政府に恭順し、秋田藩や盛岡藩領の雫石などに出兵しています。明治二年(1869年)六月の版籍奉還で「松平忠和」は島原藩知事に任命され、明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で知藩事を免官されて東京へ移りました。

「島原大変肥後迷惑」

島原の歴史でもう一つ忘れられないのが、寛政四年(1792年)の大災害です。雲仙の噴火活動が続くなか、城下の背後にそびえる眉山が地震で大きく崩れ、土砂が有明海になだれ込みました。これが大津波を起こし、島原だけでなく対岸の肥後(熊本)の海岸にも押し寄せて、あわせて1万5000人ほどが亡くなったとされます。日本の歴史上でも最大級の火山災害で、「島原大変肥後迷惑」という言葉で語り継がれています。

島原城そのものは崩れずに残りましたが、城下と藩は大きな痛手を負いました。いまの島原の町の前に広がる小島の群れ(九十九島)は、このとき崩れた眉山の土砂がつくったものです。

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島原城と松倉家の終わり

いまの島原城を築いたのは松倉重政です。重政は七年をかけて城を築き、寛永二年(1625年)に落成しました。それまで政庁が置かれていた有馬氏の日野江城から、藩の中心が島原へ移ったことになります。

島原の乱が起きた寛永十四年(1637年)の藩主は、重政の子の松倉勝家でした。乱が鎮まったあと勝家は改易され、大名でありながら武士の名誉の刑とされる切腹も許されず、斬首に処されています。

城は明治六年(1873年)に出された廃城令によって取り壊され、天守は昭和三十九年(1964年)に鉄筋コンクリート造りで復元されました。

先祖の戦国武将・深溝松平家

幕末まで島原を治めた松平家は、三河の深溝を本拠とした深溝松平家です。大永四年(1524年)ごろ、松平忠定が深溝城を得て家を起こしたとされます。二代好景、三代伊忠と、徳川家康の家臣として戦いました。

四代の松平家忠は、長篠の戦いなどで功をあげた武将で、『家忠日記』を残したことで知られます。家康の家臣が日々のできごとを書きとめたこの日記は、戦国時代の暮らしや戦いを知るうえで貴重な史料です。家忠は慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで籠城し、城とともに討死しました。

その子の代、慶長六年(1601年)に深溝藩一万石の大名となり、三河吉田、刈谷、丹波福知山などを経て島原に入りました。寛延二年(1749年)に宇都宮へ移ったあと、安永三年(1774年)に再び島原へ戻っています。

松平忠房と「島原松平文庫」

島原に入った松平忠房(元和五年〈1619年〉〜元禄十三年〈1700年〉)は、学問を好んだ藩主でした。国立国会図書館の解説によると、忠房は儒者の林鵞峰を師とし、学者との交わりを持っていました。幕府の紅葉山文庫や林家、水戸徳川家などの蔵書を写させて集めた本は、約一万点にのぼります。

この蔵書は「松平文庫」として島原城内の松平家で守られ、昭和三十五年(1960年)に島原公民館へ移されました。いまは島原図書館が所蔵しています。戦後の国文学の新資料の発見のなかでも最大のものといわれ、九州大学が整理して目録を刊行しました。戦の記憶が強い島原ですが、藩主家は学問の大きな遺産も残しました。

藩主家の子孫・明治以降

最後の藩主松平忠和は、明治二年(1869年)六月十九日に島原藩知事となり、明治四年の廃藩置県を迎えました。明治十七年(1884年)七月八日、華族令にもとづいて子爵に列せられています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、六万五千石のこの藩はおよそ千五百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「島原藩」「深溝松平家」、国立国会図書館「松平文庫」の解説、国土交通省 観光庁多言語解説文データベース「島原城」

場所・アクセス・地図

〒855-0036 長崎県島原市城内1-1183−1

参考資料:Wikipedia日本語版「島原藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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