鹿島藩(佐賀藩支藩)/鍋島家2万石:鍋島直彬 本藩の佐賀藩と行動をともにし新政府軍に従った鹿島藩

鹿島藩(佐賀藩支藩) 鍋島家2万5千石 最後の藩主 鍋島直彬
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藩の歩み

鹿島藩は鹿島(佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩です。佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の弟の鍋島忠茂が、慶長年間(1610年ごろ)に佐賀藩から二万石を分けてもらい、もともと持っていた下総香取郡の五千石とあわせて二万五千石で藩を開きました。

当初は「常広城」を藩庁としていました。寛永十九年(1642年)、2代藩主の正茂に跡継ぎがいなかったため、本家の勝茂は自分の九男・直朝を正茂の養子にしようとします。ところが正茂がこれを断ったため、勝茂は鹿島の二万石を本家に返させてしまいました。本家の意向に逆らった分家が、領地を取り上げられた形です。これ以後、正茂は下総香取の五千石を持つ旗本になりました。勝茂は鹿島藩より返還された二万石を直朝に与えました。9代藩主の「鍋島直彜」は文化四年(1807年)に鹿島城の築城を始め、文化七年(1810年)に藩庁を移しました。

幕末期は佐賀藩と行動を共にし、最後の藩主「鍋島直彬」は本藩「直正」の命令で朝廷との交渉役を務めています。文久三年(1863年)十一月十九日に備中守に遷任し、慶応二年(1866年)には幕府に追われていた「副島種臣」を庇護しています。慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府に恭順しました。明治二年(1869年)六月の版籍奉還で鹿島藩知事に任じられ、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で藩知事を免官されて東京に移りました。

鹿島藩は廃藩置県で鹿島県となり、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県と所属を変えながら、最後は佐賀県に入っています。

本家・佐賀藩との関係

鹿島藩は、肥前の佐賀藩(鍋島家)の支藩です。鍋島家の分家が、立藩当初は二万五千石、寛永十九年(1642年)以後は二万石を領しました。

幕末、鹿島藩は本家の佐賀藩と行動をともにし、戊辰戦争では新政府軍に従いました。最後の藩主は鍋島直彬(なおよし)で、維新後は沖縄県令などを務めています。技術立藩・佐賀を支えた鍋島一門の支藩でした。

最後の藩主・鍋島直彬—六歳の藩主から初代沖縄県令へ

鹿島藩最後の藩主・鍋島直彬(なおよし)は、天保十四年(1844)、十代藩主・直永の三男として生まれました。嘉永元年(1848)、十二代藩主の直賢が本家の鍋島直正によって隠居させられ、直彬はその養子として数え六歳で家督を継ぎます。支藩の藩主の進退まで本家が決めていたところに、佐賀藩と鹿島藩の力関係がよく表れています。

嘉永六年(1853)にロシアのプチャーチンが長崎に来航したときには、鹿島藩も警備に加わりました。成長した直彬は、本家の直正の指示で朝廷との交渉にあたり、慶応二年(1866)には幕府に追われていた佐賀藩士・副島種臣をかくまっています。副島はのちに明治政府の外務卿となる人物です。

廃藩置県のあと、直彬は明治五年(1872)から翌年にかけてアメリカを視察し、明治十二年(1879)四月、琉球処分の直後に初代沖縄県令に任じられました。琉球の古い制度をしばらく残す「旧慣温存」を方針とし、教育と産業の奨励に力を入れましたが、糖業政策をめぐる対立や士族の反発もあって、明治十四年(1881)に職を辞しています。その後は元老院議官、貴族院議員を務め、大正四年(1915)に七十一歳で亡くなりました。九州の小さな支藩の殿様が、明治の沖縄の最初の舵取りを任されたことになります。

藩校と、いまに残る城門

鹿島城の赤門
鹿島城の赤門
鹿島城跡の門と石垣
鹿島の城跡に残る石垣と門

鹿島藩の藩校は、寛政年間に「徳譲館」として始まり、安政六年(1859)に「弘文館」、明治三年(1870)に「鎔造館」と名を改めました。幕末の藩士たちはここで学んでいます。

九代藩主・直彜(なおつね)が文化四年(1807)に築き始め、文化七年(1810)に移った鹿島城は、藩の歴史では新しい城です。城跡には正門にあたる赤門と大手門、土塀が残り、旧藩庁の常広城の城門も個人宅に移されて伝わっています。

祐徳稲荷の萬子媛と、沖縄県令になった藩主

公家から嫁いだ萬子媛

3代直朝の継室・萬子媛は左大臣花山院定好の娘で、後陽成天皇の孫にあたります。貞享4年(1687)に祐徳稲荷神社を創建し、宝永2年(1705)に石壁の岩窟で断食して入定したと伝わります。日本三大稲荷の一つに数えられることもある神社の始まりが、この小藩の奥方だったことになります。家格は外様です。

直彬と原忠順

直彬は嘉永元年に家督を継ぎ、家老に原忠順を起用して藩政を改革しました。文久3年には直正(閑叟)の代理として京都に入り公武合体を進言し、戊辰戦争では北陸道の先鋒を務めています。明治には沖縄県令として国語伝習所や師範学校、小学校を設け、糖業も振興しました。原忠順も沖縄県の書記官として県政を支え、琉球大学に「原忠順文庫」が残ります。直彬は明治17年に子爵となりました。

赤門と浜の町並み

鹿島城の赤門と大手門は佐賀県の重要文化財です。領内の浜は川港を背景にできた在郷町で、多良海道の宿場と酒造で栄え、2つの地区が重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。

考察:小藩の主従が沖縄の近代を担った

2万石の支藩の藩主と家老が、そろって沖縄の近代教育の礎を築いた。廃藩後の大名と家臣のつながりが、新しい土地で生かされた珍しい例だと思います。

鹿島藩(佐賀藩支藩)をもっと詳しく

将軍秀忠のそばに仕えた藩祖・鍋島忠茂

藩祖の鍋島忠茂は天正12年(1584年)、鍋島直茂の次男として佐賀城で生まれました。文禄・慶長の役では、父や兄の勝茂とともに朝鮮へ渡っています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄の勝茂が西軍についたため、鍋島家は徳川家康から処罰されかけますが、忠茂は父の命を受けて西軍の立花宗茂を攻め、家の存続に力を尽くしました。

翌慶長6年(1601年)、忠茂は人質として江戸へ下り、慶長7年(1602年)に徳川秀忠の近習となります。秀忠に目をかけられて「忠」の一字を与えられ、忠茂と名を改めました。このとき下総国の矢作(いまの千葉県香取市)に5000石を与えられています。鹿島藩が立藩のとき肥前の2万石と下総の5000石を合わせた2万5000石だったのは、この江戸での奉公があったからです。

父と兄は忠茂を幕府とのつなぎ役として重んじ、2万石を分け与えました。立藩の年は慶長14年(1609年)とされますが、1610年ごろとする資料もあります。忠茂は慶長13年(1608年)に中風を患っており、藩政はほとんど自分では執らなかったとされます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には病をおして加わり、秀忠から大いにほめられました。寛永元年(1624年)8月4日、下総の矢作で療養中に41歳で亡くなっています。

本藩の石高の内側にあった2万石

寛永19年(1642年)に2代正茂が鹿島を離れると、下総矢作の5000石は正茂の旗本家に残り、肥前の2万石だけが勝茂の九男・直朝に与えられました。こうして立て直された鹿島藩の2万石は、佐賀藩の内高、つまり本藩の35万7000石の内側に組み込まれていました。幕府から見れば一人の大名でありながら、その収入の土台は本藩の石高の一部だったのです。以後の鹿島藩の石高は2万石となります。

年貢をすべて本藩に預けたいと願い出た財政

鹿島藩は税収の少ない小藩でありながら、勅使を迎える饗応役、江戸城の警備、本藩が担う長崎警備への藩兵の派遣といった負担を抱えていました。本藩に財政の援助を頼むこともたびたびで、寛政10年(1798年)には借銀の返済に行き詰まり、年貢をすべて佐賀藩に預けて財政を任せたいと願い出ています。

2度持ち上がった廃止計画

本藩の側では、鹿島藩を廃止しようとする動きが2度ありました。1度目は文政元年(1818年)です。2度目は嘉永4年(1851年)で、藩主の直彬が幼く病弱であることを理由に、佐賀藩主の鍋島直正が廃止を目論みました。いずれも支藩側の反対で廃止は免れましたが、嘉永4年以後は、参勤交代を含むすべての公務負担が止められています。

軍役から見た規模

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人を動員するのが目安とされます。立藩当初の2万5000石なら約588人で590人ほど、寛永19年以後の2万石なら470人ほどになります。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。

あわせて読みたい

本家については佐賀藩、同じ佐賀藩の支藩については小城藩と蓮池藩のページで取り上げています。

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「鹿島藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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