藩の歩み
蓮池藩がいつ生まれたかははっきりせず、いくつかの説があります。江戸時代の初め、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の五男・鍋島直澄が、佐賀藩の領地のうち佐嘉郡・神埼郡・杵島郡・松浦郡・藤津郡で五万二千石を与えられたのが始まりと伝えられます。はじめは佐賀城の三の丸に役所を置いていましたが、のちに蓮池に陣屋を構えました。

安政元年(1854年)より幕命で5年間の公務猶予が許された代わりに、長崎防備の強化を命じられ、そのための出費で財政がさらに悪化しました。このため蓮池藩では借金が一気に増大しています。
元治元年(1864年)の「第一次長州征伐」では幕府方として1000人の兵を出し、幕末最後の藩主「鍋島直紀」は父の命で京都にも出兵しています。慶応四年(1868年)一月、戊辰戦争が勃発すると新政府に恭順して弟「石井忠躬」を名代に任じ出羽秋田藩に出兵しました。
明治二年(1869年)の版籍奉還で蓮池藩知事に任じられ、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で藩知事を免官されて東京へ移りました。廃藩置県で蓮池県となり、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県と所属を変えながら、最後は佐賀県に入りました。藩主の鍋島家は、明治十七年(1884年)の華族令で子爵となっています。
本家・佐賀藩との関係
蓮池藩は、肥前の佐賀藩(鍋島家)の支藩です。鍋島家の分家が五万二千石を領しました。
幕末、本家の佐賀藩が最新の兵器と技術で新政府軍を支えると、蓮池藩もこれに従います。戊辰戦争では新政府軍に属し、遠く秋田戦争にまで藩兵を送りました。最後の藩主は鍋島直紀です。技術立藩・佐賀を支えた鍋島一門の支藩でした。
直紀は男子に恵まれず、養子の直柔が家督を継ぎました。直柔の子・直和は伯爵松平直亮の娘たちと縁を結び、孫の直方は公爵一条実輝の娘を妻に迎えるなど、明治以降の蓮池鍋島家は名門華族との婚姻を重ねています。直柔自身の子のうち、次男は伯爵堀田正倫の、三男は伯爵葉室長通のそれぞれ養子となり、旧藩主家の血脈は各地の名家へと分かれ広がりました。
最後の藩主・鍋島直紀—実権のない二十年
鍋島直紀(なおただ)は文政九年(1826)、八代藩主・鍋島直与(なおとも)の長男として生まれ、藩校・成章館で学びました。弘化二年(1845)に父の隠居で家督を継ぎますが、藩の実権はその後も父が握り続け、直紀が名実ともに藩主となったのは元治元年(1864)のことでした。幕末の蓮池藩の舵取りの多くは、隠居した父・直与の手にあったことになります。
安政元年(1854)から五年間、参勤などの公務を猶予される代わりに長崎防備の強化を命じられたのも、この父子の時代です。異国船への備えにかかる出費が、もともと苦しかった藩の財政をさらに追い込みました。
第一次長州征討(1864年)では幕府方として千人を動員した蓮池藩が、四年後の戊辰戦争では新政府側として秋田へ兵を送っています。わずか数年で立場が入れ替わったのは、本家の佐賀藩の方針に従った結果でした。廃藩置県のあと、直紀は明治四年(1871)十一月に隠居して養子の直柔に家を譲り、明治二十四年(1891)に東京・麻布の屋敷で亡くなりました。六十六歳でした。
陣屋の跡
蓮池藩の陣屋は、戦国時代の蓮池城の跡に置かれていました。いまその一帯は佐賀市の蓮池公園となっていて、桜の名所として知られています。
同じころの長崎—イギリス艦隊の来航
日英の約束 蓮池藩の本家・佐賀藩が長崎の警備を担っていた嘉永七年(1854)、イギリスの東インド艦隊司令長官スターリングが軍艦で長崎に入りました。クリミア戦争でロシアと戦っていたイギリスは、日本の港を使えるようにしたかったのです。長崎奉行との交渉の末、この年の八月に日英約定(日英和親条約)が結ばれました。
警備の役目 同じ年にはロシアのプチャーチンも長崎や下田に来航しており、長崎の警備にあたる佐賀藩と、その支藩の蓮池藩・小城藩・鹿島藩は、外国の軍艦への備えに追われました。
蓮池藩をもっと詳しく
藩の成り立ち
初代藩主の鍋島直澄は、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の五男です。兄の忠直が亡くなったあと、その未亡人を妻に迎えたことから、一時は鍋島本家の跡継ぎの候補に推されましたが、本家を継ぐことはできませんでした。寛永十五年(1638年)に島原の乱から戻ると、父の勝茂が佐賀城の本丸に、直澄は三の丸に入っています。蓮池藩として五万二千石を与えられたのは寛永十九年(1642年)とされますが、立藩の年には別の説もあります。直澄は寛文五年(1665年)に塩田の吉浦館へ隠居して次男の直之に家を譲り、寛文九年(1669年)にそこで亡くなりました。
先祖の戦国武将
蓮池鍋島家の祖をさかのぼると、戦国時代に龍造寺氏の重臣として肥前を動かした鍋島直茂に行きつきます。直茂の長男が佐賀藩初代の勝茂で、豊臣秀吉の時代には、幼い龍造寺高房に代わって鍋島父子が国の政治の実権を握っていました。蓮池藩は、この直茂・勝茂の血筋を分けた家です。
本家と分家の関係
蓮池藩の五万二千石は、佐賀藩の石高の内側に含まれる「内高」として与えられたものでした。小城藩と同じく参勤交代を行っており、享保十五年(1730年)には参勤交代の免除を願い出ましたが、本家の佐賀藩に退けられています。本家の意向に強く縛られた支藩だったことがうかがえます。藩の家老は石井家・成富家・松枝家・峯家が務めました。
領地のようす
領地は佐嘉郡・神埼郡・杵島郡・松浦郡・藤津郡に散らばっていました。陣屋のある佐賀郡・神埼郡の東側と、杵島郡・松浦郡・藤津郡の西側の二つに分かれており、西側の領地は、長崎街道の宿場町である塩田宿が治める拠点になっていました。初代の直澄が隠居した吉浦館も、この塩田にありました。
蘭学に打ち込んだ八代藩主・鍋島直与
最後の藩主・直紀の父である八代藩主・鍋島直与(なおとも)は、佐賀藩八代藩主・鍋島治茂の七男で、「蘭癖大名」と呼ばれた人物です。『仏蘭察誌』『欧羅巴諸図』という著作があります。直与は高島秋帆の長男・高島浅五郎を招いて新しい形の大砲を造らせ、多くの蘭書を訳させました。また佐賀の蘭学の祖とされる島本良順を侍医に迎え、文政六年(1823年)には藩校・成章館の教授に満野荷州を任じています。天保元年(1830年)には、その手腕から幕府の若年寄・寺社奉行に推されかけましたが、本家の藩主・鍋島斉正(直正)の反対で実現しませんでした。
隠居したあとの安政二年(1855年)三月には、直与の命で造られた西洋式の大砲を、自ら船で塩田へ運び、久間村(今の嬉野市塩田町久間)の高取山で試し撃ちをしています。同じ年の四月には、本家の医師・大石良英を招いて娘四人に種痘を受けさせました。隠居後に造った庭園「天賜園」は六十四の景色で構成されていたと伝わります。直与は元治元年(1864年)十一月九日に亡くなりました。ちょうど長州征討のさなかで、喪中でも領内の具足師・鉄砲師・槍師などは仕事を続けることを許されたといいます。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万二千石のこの藩はおよそ千二百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「蓮池藩」「鍋島直澄」「鍋島直与」「鍋島勝茂」
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参考資料:Wikipedia日本語版「蓮池藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。



