福井県庁は、福井城の本丸の中にあります。
比喩ではありません。内堀に囲まれた本丸跡に、そのまま県庁と県警本部が建っている。橋を渡って石垣の間を抜けると、目の前が役所の玄関です。——正直、着いたときは戸惑いました。役所の横がそのまま史跡なのです。
そして、この城下はもうひとつ特別です。坂本龍馬が生涯の最後に訪ねた城下町が、ここ福井でした。

「北ノ庄」から「福居」、そして「福井」へ


説明碑によれば、慶長五年の関ヶ原ののち、越前六十八万石の大名となった結城秀康——徳川家康の次男です——が翌年に北庄へ入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手しました。およそ六年の歳月をかけて完成した城下が、いまの福井市の原形になっています。
案内板のほうは、もう少し具体的です。城は慶長六年から十一年にかけて築かれ、本丸北西隅には高さ約三十メートルの天守がそびえていた。中央に本丸御殿、北東・南東・南西の隅に三つの櫓。南の御本城橋が正式な通路で、渡ると本丸の正門である瓦御門があった。西には屋根つきの御廊下橋もかかっていた。
そして——秀康時代の建物は、寛文九年に焼けてしまいました。いま本丸に建物がないのは、明治の廃城令のせいですらない。江戸時代のうちに燃えているのです。

「福井」という地名は、どこから来たか
天守台に、「福の井」という井戸があります。慶長六年の築城当時からあったと考えられていて、安永四年の「御城下絵図」の天守台にも「福井」と記された井戸が描かれている。
福井藩の正史『越前世譜』には、「天守のそばに福井という名井があり、その名によって北庄を福井と改めた」という趣旨の記述があり、ここから「福の井」が地名の由来だという説が生まれました。
ただし説明板は、そこで踏みとどまります。実際は寛永元年、福井藩三代藩主・松平忠昌が「北ノ庄」の『北』は敗北につながるとして「福居」に改め、それが千七百年ごろに「福井」となった——と考えられている、と。
——負けを連想させる字を捨てた。柴田勝家がここで秀吉に敗れて自刃したことを思えば、この土地には「北」を嫌う理由が実際にあったわけです。
ちなみに「福の井」は、昭和二十三年の福井地震のとき、周囲の石垣が崩れるなかで崩壊を免れました。ただし井戸の形が大きく歪んだため、震災後に井戸枠が作り変えられています。いまの姿は平成二十九年に再整備されたもので、口径約一・六メートル、深さ約五・一メートル。
幕末——松平春嶽と、集められた人材

ここからが本題です。福井藩三十二万石の幕末は、松平春嶽(慶永)という一人の藩主から始まります。
十一歳の藩主
春嶽が家督を継いだのは天保九年、十一歳のときでした。田安徳川家の出で、越前松平家へ養子に入った人です。
彼がやったことは、ひとことで言えば「人を集めた」ことに尽きます。それも、身分や出身にほとんどこだわらずに。
橋本左内
橋本左内は藩医の子でした。大坂の適塾で緒方洪庵に学び、十五歳で『啓発録』を書いた早熟な男です。
春嶽はこの若者を側近に取り立て、将軍継嗣問題での中央工作を任せました。——一橋慶喜を次の将軍に推す運動です。
横井小楠と、三岡八郎
さらに春嶽は、熊本から横井小楠を招きます。他藩の、しかも藩内で浮いていた思想家を、三十二万石の政治顧問として迎えたのです。小楠が説いたのは、通商と殖産によって国を富ませるという考え方でした。
その小楠から財政学を学び、実際に藩の財布を握ったのが三岡八郎——のちの由利公正です。
三岡は下関で物産取引の実情を調べ、長崎に蔵屋敷を建て、オランダ商館と生糸販売の特約を結びました。藩札の発行と専売制を組み合わせ、福井藩の財政を黒字に転換させています。
——藩医の子、他藩の浪人、そして財政の実務家。幕末の福井は、日本でもっとも風通しのいい藩の一つでした。
そして、彦根に斬られた
この明るさは、長くは続きませんでした。
将軍継嗣問題は、紀州の慶福(家茂)を推す大老・井伊直弼の勝ちに終わります。安政五年、春嶽は隠居・謹慎を命じられました。
そして翌安政六年、橋本左内は江戸で斬首されます。二十六歳。安政の大獄で処刑された者のなかでも、とりわけ惜しまれる死でした。
私はこの旅の前日に、彦根城を歩いています。国宝天守の建つ、井伊直弼の城です。あそこで直弼が十五年を過ごした埋木舎の話を読み、その翌日にこの福井で、直弼に斬られた側の城下に立っている。
斬った側の城と、斬られた側の城下が、車で二時間ほどの距離にある。そのことに、あらためて気持ちがざわつきました。
——なお、直弼はその翌年、桜田門外で殺されます。
★慶応三年十一月、龍馬が来た

春嶽と坂本龍馬には、以前から縁がありました。脱藩した土佐の浪人が千葉重太郎とともに春嶽を訪ね、その紹介で勝海舟に会うことができた——という話です。龍馬の人生の大きな扉を開けたのが、この福井の殿様でした。
そして慶応三年十一月。大政奉還の翌月です。龍馬はふたたび福井へやって来ます。目的は、はっきりしていました。
新政府の財政を、三岡八郎に任せたかったのです。
ところが当の三岡は、そのとき謹慎中でした。長州征伐をめぐる藩論の対立で処分を受け、福井で蟄居していたのです。
——それでも龍馬は会いに行きました。
足羽川に近い山町の莨屋(たばこや)旅館で、二人は早朝から深夜まで語り合ったと伝わります。新しい国をどう食わせるか。金をどこから出すか。船中八策を書いた男と、藩財政を黒字にした男が、謹慎中の身の上で、一日じゅう話し込んだ。
そして龍馬は京へ戻ります。
十一月十五日、近江屋で斬られました。
——福井を発ってから、わずか十日ほどのことです。
私はこの事実を知って、しばらく手が止まりました。坂本龍馬が生涯最後に訪ねた城下町は、福井だった。そして彼が最後に会いに行った相手は、藩から処分されて謹慎していた財政官僚だった。
五箇条の御誓文は、福井から出た
龍馬は死にましたが、託されたほうは生き残りました。
明治元年、三岡八郎——由利公正は新政府の徴士参与として金融財政を担当します。そして土佐の福岡孝弟らとともに起草に加わった「議事之体大意」が、五箇条の御誓文の原文になりました。
「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」——あの一行の源流をたどっていくと、横井小楠の富国論があり、春嶽の人材登用があり、そして莨屋旅館の一夜がある。
由利はその後、太政官札の発行を推進し、明治二年に政策批判を受けて辞職。明治四年には東京府知事となり、岩倉使節団に随行して欧米を見て、明治七年には板垣退助・江藤新平らと民撰議院設立建白書に名を連ねています。明治四十二年まで生きました。
春嶽もまた、明治の政府で議定・民部卿・大蔵卿を歴任し、明治二十三年まで生きています。——橋本左内だけが、二十六歳で終わった。
小雨のなかを、小走りで


この日は小雨でした。傘を差したり畳んだりしながら、小走りで史跡をまわったのを覚えています。石垣が濡れて黒く光り、堀の水が鉛色をしていました。
そして歩きながら、ずっと同じことを考えていました。
ここの史跡は、たいてい何かになっている。
本丸は県庁と県警。ほかの曲輪も、学校だったり、公共施設だったり、ふつうの街区だったりする。「城跡です」と言われて行ってみると、そこで人が働いていたり、子どもが授業を受けていたりするのです。
最初は少し肩透かしを食らった気分でした。でも、天守台の石垣を見上げているうちに、考えが変わりました。
これは、この城が最後まで「使える場所」だったということです。
高天神城のように山へ帰った城もあれば、田中城のように住宅地に溶けた城もある。福井城は、明治になってからも県の中枢であり続けた。——春嶽が人を集めて藩の頭脳にした場所が、いまも県の頭脳をやっているわけです。考えようによっては、これほど筋の通った転用もありません。


それにしても、と思います。
橋本左内は二十六歳で首を落とされ、龍馬は三十三歳で斬られ、横井小楠は明治二年に暗殺されました。春嶽が集めた頭脳のうち、何人が畳の上で死ねたのか。
その一方で、由利公正は八十歳まで生きて、東京府知事をやり、欧米を見て、国会を作れと建白しています。——生き残った者が、死んだ者の言葉を形にした。福井という城下は、その両方を出した町でした。
アクセスと地図
福井城址/福井県福井市大手三丁目。JR福井駅から徒歩五分という、城跡としては破格の近さです。
本丸跡は福井県庁・県警本部の敷地ですが、天守台・石垣・内堀・福の井は自由に見学できます。平日は職員や来庁者が普通に行き交っているので、通行の邪魔にならないように。
見どころは天守台の「福の井」と、西側の御廊下橋(平成二十年復元)・山里口御門(平成三十年復元)。ぐるりと一周して三十分から一時間です。柴田勝家の北ノ庄城址・柴田神社までは徒歩十分ほど、あわせて回るのがおすすめです。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「福の井」
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