陸奥宗光 宛
| 原文 |
| 此書や加七来りて是非手紙かきて、陸奥先生に送りくれよと、しきりにそふだんゆへ、目前ニしたゝむ、かしこ。御案内の沢やの加七と申候ものゝ咄、(是ハ御手下のひしや某が聞得所なり。)度々小弟ニ参り相談致し候。某故ハ仙台の国産を皆引受候て、商法云云の事なり。小弟が手より金一万両出セとのこと也。上件を是非と申相願候間、商法の事ハ陸奥に任し在之候得バ、陸奥さへウンといへバ、金の事をともかくもかすべし。然る右よふの大金をスワというて出すものにてなし。よく々心中ニもわかり候よふ、陸奥に咄し致しくれ候よふと申聞候所、加七曰ク、仙台の役人及河内の郷士ら相会し候得バ、加七が自から下坂と云わけニハまいらずゆへ、陸奥先生義早々上京の上、右人々に御引合奉願候との事なり。此上よく御考合可被成候。小弟ガ論ニ竊ニ大兄に言、目今御かゝりの丹波丹後の一件云々大坂四ツ橋大仏や門前御談の事万不可被忘、十分右の所に御心お御用第一なり。右のよふ御用心、先は早々頓首。十月廿二日龍元二郎先生御本 |
| 現代文 |
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この手紙は加七が来て、是非手紙を書いて陸奥先生に送って下さいというので目の前で書いた。ご存じの沢屋の加七という者の話(これは手下の菱屋某が聞いた話で度々私のところに相談しに来た)では、仙台の国産物をみんな引き受けて商売する話云々のことです。私の手元から金一万両出せとのこと。条件を是非ともお聞かせ頂いたが、商売のことは陸奥に任せてあるので、陸奥さんが良いと言えばお金を貸すと伝えた。しかし、右のようなお金 をはいどうぞといって出すものではない。よくよく心からわかるよう陸奥に話してくれと(私が加七に)申し聞かせたところ、と言っています。加七いわく、仙台の役人及び河内(大阪府東部)の郷士らが会合し、加七自身が大坂へ下るわけにはいかないので、陸奥先生が早々に上京し、この人々に引き合わせたいと思っているとのこと。この上よくお考え下さいませ。私の考えを密かに大兄(陸奥宗光)に話したいので、今抱えている丹波丹後(京都北部)の件云々も合わせて、大阪四ツ橋大仏の門前で会合することを忘れないで下さい。この話は、十分にご用心して下さい。くれぐれもご用心あれ。まずは早々に。10月22日龍馬元二郎先生(陸奥宗光の変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
海援隊士・陸奥宗光へ宛てた手紙です。海援隊が投宿する旅館の主人・加七が来て、ぜひ陸奥先生に書いてほしいと言うので目の前で筆をとったと記し、仙台の国産物をすべて引き受けて商う話や、それに要する資金の相談などを伝えています。海援隊が政治活動だけでなく、活発な商取引にも乗り出していた様子がうかがえる一通です。
宛先「陸奥宗光」とはどんな人物か

海援隊士で、龍馬がその才を高く買った人物です。のちに明治政府の外務大臣として条約改正を成し遂げ、「カミソリ大臣」と称されました。若き日には龍馬のもとで頭角を現していました。
この手紙が書かれたころ
海援隊を率い、政治の周旋と並行して交易の事業を広げていたころの龍馬です。武力ではなく商いの力で国を富ませるという構想を、現実の取引を通じて試みていました。大政奉還前後の緊迫した政局のなかでも、諸藩や商人による交易は活発に続いていました。経済の力が、新しい時代を支える基盤として重んじられはじめていました。土佐藩公認の海援隊は、海運と交易を通じて藩の財政にも貢献していました。龍馬はその事業の中心にあって、実業家としての手腕も発揮していました。
一万両の商談は「陸奥さへウンといへバ」、越前行き二日前の手紙
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙は第百十五番「慶応三年十月二十二日 陸奥宗光あて」です。本文の「十月廿二日」に宮地が慶応三年と年を比定しており、底本の注記では原本は国立国会図書館の所蔵とされています。冒頭には、加七がしきりに頼むので目の前で書いたという添え書きがあり、加七の見ている前で筆をとった手紙だと分かります。
龍馬は金一万両を出せという話に対し、商売のことは陸奥に任せてあるので陸奥が承知すれば貸すと答えつつ、そんな大金をすぐに出せるものではないと釘を刺しています。この月には将軍徳川慶喜が大政奉還を申し出ており、宮地本で二日後の十月二十四日付、岡本健三郎あての第百十六番には、後藤象二郎から言われて当日のうちに越前へ出発すると書かれています。政局が大きく動くさなかにも、商いの判断は陸奥に預けていたことがうかがえます。
同じころの江戸—薩摩藩邸の浪士たち
江戸では 慶応三年(1867)十月ごろから、江戸の三田にあった薩摩藩邸には、益満休之助や伊牟田尚平、相楽総三らのもとに多くの浪士が集められていました。浪士たちは江戸の町や関東各地で強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発します。この騒ぎに怒った庄内藩などが十二月に薩摩藩邸を焼き討ちし、それが鳥羽伏見の戦いのきっかけの一つとなりました(赤報隊と相楽総三)。
宛名の陸奥宗光 紀州藩出身の陸奥は、海援隊で龍馬の右腕となった隊士です。大政奉還ののちも、江戸と京都では武力による決着を望む動きが止まらず、龍馬と陸奥は話し合いの道を守るために動き続けていました。
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