陸奥宗光 宛(慶応三年九月十三日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

陸奥宗光 宛

原文
三四郎及、龍も一所に大兄の御咄し相聞しに、芸州の方へは別段に三四郎が参るに不及かのよふ存込ミ居候。然ニ今日右よふの手紙が参り候得ば、もしつがふあしくはあるまいかと存候へば、御相談申上候。今日は三四郎も病気に候得バ、たれでも代人つかハし候間、御同行奉頼候。御帰り次第、佐々木の宿ニ御成奉願候。早々頓首。十三日龍〆楳太郎奥陸元二郎様左右
現代文
三四郎(佐佐木高行)及び、私も大兄(陸奥宗光:海援隊士)のお話を聞きに、広島の方には別段三四郎(佐佐木高行)が行くには及ばないように思う。しかし、今日このような手紙が来ましたので、(行かなくては)具合が悪いのではないかと思い、ご相談申し上げます。今日は三四郎(佐佐木高行)も病気なので、誰か代わりの人を来させてご同行の程頼みます。帰り次第佐々木の宿に来て下さい。13日龍馬楳太郎(龍馬変名)奥陸元二郎様(陸奥宗光:海援隊士)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「佐佐木三四郎(高行)と私も、あなたの話を聞きに行くつもりだ。芸州(広島)へは、わざわざ三四郎が行くには及ばないかと思っていたが、今日こういう手紙が来たので、都合が悪くなければ相談したい。今日は三四郎が病気なので代わりの者を立てるから、同行を頼みます。帰り次第、佐々木の宿へ来てほしい」という、段取りの相談を伝える手紙です。十三日付、楳太郎の署名。芸州(広島)藩との連携が背景にあります。

宛先「陸奥宗光」とは

陸奥宗光
陸奥宗光(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

陸奥宗光は海援隊で龍馬の腹心をつとめ、のちに外務大臣となる俊才です。実務を安心して任せられる、頼れる相手でした。

この手紙が書かれたころ

薩長芸の連携が模索されるなか、諸藩との折衝や人の行き来を細かく調整していました。腹心の陸奥や佐佐木高行と連携しながら動いていました。薩摩・長州に芸州(広島)を加えた雄藩連合の動きが進んでいました。倒幕へ向けた包囲網が、着々と広がっていた時期です。土佐藩の佐佐木高行や海援隊が、こうした藩と藩の交渉の実務を担っていました。龍馬はその調整役の中心にいました。

小銃千挺と芸州の蒸気船を手配していた九月の長崎

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、「十三日」とだけ記されたこの手紙を慶応三年九月十三日のものと比定しています(百五番)。このころ龍馬は長崎にいて、九月六日付の佐々木高行あての手紙では、蒸気船を借り入れ、小銃千挺を買い入れて早々に出帆すると決めたと伝えています。二十日付の木戸孝允あての手紙には、小銃一千挺を買い求め、芸州の蒸気船を借りて土佐へ積み回すところだとあります。ただし、文中の「芸州の方」がこの船の件を指すのかどうかは、文面だけでは決められません。

三四郎こと佐々木高行もこのとき長崎にいて、龍馬とたびたび会っていました。土佐史研究家の広谷喜十郎氏によれば、手紙の二日前の九月十一日には土佐商会の者二人が英米の水夫を傷つける事件が起き、佐々木は龍馬と相談して事を収めています。その佐々木が病で動けない日に、龍馬は代わりの者を出すから同行を、と陸奥に頼んでいるのです。

同じころの京都—後藤象二郎の交渉

京都では 慶応三年(1867)九月、土佐から京都に戻った後藤象二郎は、前藩主・山内容堂の名で出す大政奉還の建白書を幕府に届けるため、幕府側の窓口だった若年寄格の永井尚志らと話し合いを重ねていました。薩摩が武力倒幕へと動くなかで、建白を受け取ってもらえるかどうかが土佐藩の命運を左右していました。建白書が老中に提出されたのは、十月三日のことです。

宛名の陸奥宗光 紀州藩出身の陸奥は、海援隊で商いや交渉に才能を見せた隊士でした。後藤が京都で政局を動かしていたこの時期、陸奥は長崎で海援隊の実務を担っていました。

慶応三年九月、芸州藩と土佐藩の間で

芸州藩の船を借りる交渉

この手紙のころ、龍馬は長崎で小銃を買い付け、それを土佐へ運ぶ船を探していました。手紙に出てくる「広島」は芸州藩のことです。龍馬は芸州藩の蒸気船・震天丸を借りることになり、九月下旬にこの船で土佐の浦戸へ入りました。芸州藩は、六月の薩土盟約に加わって薩土芸の三藩の約定を結んだ藩で、土佐藩とは近い間柄にありました。

陸奥宗光と佐佐木高行

宛先の陸奥宗光は海援隊の商いの部門を任された隊士で、佐佐木高行は土佐藩の大目付です。二人の間を取り持ち、病気の佐佐木の代わりを立てるよう相談するこの手紙からは、龍馬が藩の役人と隊士をつないで、急ぎの仕事をさばいていた様子が分かります。

海援隊の中の甥

この長崎の海援隊には、龍馬の甥の高松太郎も加わっていました。長姉・千鶴の長男で、隊では「小野淳輔」と名乗っています。龍馬の死後、太郎は明治四年に龍馬の家名を継ぎ、坂本直となりました。

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