| 原文 |
| 御目にかけ置候、木圭より私に参り候手紙、長文の方、此者に御つかはし奉願候。謹言。九月十八日龍拝首佐々木三四郎様左右 |
| 現代文 |
| 先に見て頂いた、桂小五郎から私に届いた手紙ですが、長い文の方はこの者に渡して下さい。。9月18日龍馬佐々木三四郎様(佐佐木高行:土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「先にお見せした、桂小五郎から私に届いた手紙の長文の方を、この者に渡してほしい」と、書状の受け渡しを頼む短信です。「木圭」は桂小五郎(木戸孝允)を指します。日付は「九月十八日」。龍馬が長州の桂と密に連絡を取り合っていた時期のもので、薩長の提携が進む慶応年間の一通とみられます。志士たちの間で書状がいかに重んじられたかが伝わります。
宛先「佐佐木高行」とは

佐佐木高行(三四郎)は土佐藩士で、海援隊を監督する立場にあり、維新後は元老院議官や枢密顧問官を歴任しました。日記『保古飛呂比』を残した記録者としても知られます。桂小五郎の手紙を託し合う仲であったことは、龍馬と土佐藩の距離の近さを物語ります。
この手紙が書かれたころ
長州の桂小五郎、薩摩の西郷・小松らと通じ、諸藩を結ぶ“つなぎ役”として動いていた時期です。書状のやり取りそのものが、同盟工作の生命線でした。慶応二年(1866)の薩長同盟前後、桂小五郎らとの連絡は倒幕へ向けた提携の要でした。一通の手紙が政局を動かしかねない緊張のなかにありました。土佐藩は薩長とは一線を画しつつ、後藤象二郎を中心に大政奉還による政権移行を模索していました。龍馬はその土佐と長州の間をも取り持つ位置にいました。
「木圭」は木戸孝允です
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年九月十八日のものとしています。先日お見せした、木圭から私に来た手紙のうち長い方を、この者に渡してほしい—と佐々木 高行に頼む短い一筆です。
「木圭」は、宮地が別の手紙の注で「木圭(木戸孝允)」としている呼び方で、桂小五郎、すなわち木戸孝允を指します。木戸の「木」と桂の「圭」を合わせた書き方です。長州の木戸から龍馬に届いた長文の手紙を、龍馬はいったん土佐藩の大監察に見せていたことになります。薩摩・長州と土佐をつなぐ龍馬の仕事が、こういう手紙の回し読みで成り立っていたことが分かります。この九月の半ば、龍馬は蒸気船で小銃を土佐へ運ぶ準備を進めていて、木戸の手紙もその動きと無関係ではなかったでしょう。ただ、木戸の手紙の中身までは、この一通からは分かりません。
同じころの芸州藩—震天丸と大政奉還
芸州藩の立場 安芸の広島藩(芸州藩)は、この慶応三年(1867)の秋、薩摩・長州とともに兵を京都へ送る約束を結ぶ一方で、土佐と同じく将軍に政権を返すよう求める建白も行いました。武力と話し合いの両方に足をかけた藩だったのです。十月六日には、芸州藩も独自に大政奉還の建白書を幕府に出しています。
龍馬と芸州藩 龍馬が土佐藩のために買い入れたライフル銃を土佐へ運んだ蒸気船・震天丸は、この芸州藩から借りた船でした。佐佐木高行に宛てたこの手紙が書かれたのは、龍馬が銃を積んで長崎を発つ直前のことです。
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受け取った側の記録が、刊行されている
佐佐木高行あての手紙には、ほかの宛先にない強みがあります。受け取った側の記録が本になっていることです。
『保古飛呂比』は東京大学史料編纂所が編み、東京大学出版会から全十二巻が昭和四十五年から五十四年にかけて刊行されました。収録年代は天保元年から明治十六年まで。第二巻が元治元年から慶応三年にあたり、龍馬と行き合う時期をそのまま含みます。
ただし性格には注意が要ります。史料編纂所自身が解題で「編年体の伝記史料であって日記ではない」と断り、「佐佐木高行日記」という題名が流布しているので原題と併せて掲げたと書いています。底本は維新史料編纂会が旧蔵し同所が引き継いだ写本六十三冊で、原本は百二十冊といわれますが焼失したとされ、現存状況は分かっていません。
龍馬の手紙と突き合わせるとき、こちら側は「その日書かれた日記」ではなく、のちに編まれた伝記史料だということになります。
戊辰戦争では、この人が海援隊を動かした
佐佐木高行と海援隊の関係は、龍馬の生前だけで終わっていません。
国立国会図書館「近代日本人の肖像」は、佐佐木について戊辰戦争で海援隊を率いて長崎奉行所を占拠したと記しています。龍馬が討たれたあと、隊を動かして長崎の奉行所を接収したのがこの人でした。
慶応三年の夏に長崎で海援隊との連絡を担い、翌年にはその隊を率いて奉行所に入る。藩の窓口として付き合っていた人が、龍馬の死後にそのまま隊を引き継いだ形です。この一通をはさんで前後に、そういう展開が待っていました。
手紙の宛先が、明治の政府に並んでいく
佐佐木のその後をたどると、維新後は参議、司法大輔。明治四年には岩倉使節団に司法省理事官として加わり、欧米の法制度を調べています。明治十四年に参議兼工部卿、のち宮中顧問官・枢密顧問官を務め、明宮すなわち大正天皇の教育にも携わりました。
東京大学史料編纂所によれば、生家は土佐藩の馬廻組で禄高百石。百石の家に生まれた人が、龍馬の手紙を受け取ってから十数年で参議兼工部卿になります。明治四十三年三月二日、八十一歳で亡くなりました。
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