伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 土佐の定宿に御引取申候つもりニ候間、今夕方まで其方もとに御止り可被遣候、早々。二日龍九三様才谷御直披 |
| 現代文 |
| 土佐の定宿(契約宿)に引き取るつもりですので、今日の夕方まで、そちらでお留め置きください。2日龍馬九三様(伊藤助太夫)才谷(龍馬変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「土佐の定宿に引き取るつもりなので、夕方まではそちらに留めておいてほしい」という、下関での宿の手配についての短信です。署名の「才谷(さいたに)」は龍馬の変名。日付は「二日」のみで年は不明ですが、龍馬が下関を拠点にしていた慶応年間のものとみられます。何気ない用件のなかに、下関に土佐の者が泊まる定宿があったことがうかがえます。
宛先「伊藤助太夫」とは

伊藤助太夫(いとう すけだゆう)は下関の豪商・船問屋で、白石正一郎と並ぶ龍馬の有力な支援者でした。龍馬に宿と資金を提供し、その妻お龍をあずかったことでも知られます。龍馬にとって下関の“定宿”ともいえる存在で、海運の実務でも頼りにされました。
この手紙が書かれたころ
亀山社中から海援隊へと事業を広げ、下関を長崎と並ぶ重要拠点としていた時期です。伊藤家に身を寄せながら、船と人の差配に追われる多忙な日々を送っていました。下関は長州藩の玄関口であり、海運と情報が集まる要衝でした。薩長同盟が成り、倒幕への動きが本格化するなか、この地は西国の政局の結び目となっていました。脱藩浪士の龍馬を、土佐藩は次第に「使える人材」として遇し始めます。後藤象二郎との和解を経て、龍馬の海運事業は土佐藩の後ろ盾を得ていきました。
下関の伊藤家に客を預ける
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年の春ごろのものと推定しています。書簡にあるのは「二日」だけで、年月は宮地の推定です。土佐の定宿に引き取るつもりなので、今夕方まではそちらに留めておいてほしい—伊藤九三に宛てて、誰かを夕方まで預かってくれるよう頼んでいます。
誰を預けたのかは書かれていません。けれども「土佐の定宿」という言葉から、下関には土佐の者が泊まる決まった宿があったことが分かります。そしてそこへ移すまでの数時間を、伊藤家が引き受けていました。伊藤九三、すなわち伊藤助太夫は下関の本陣伊藤家の当主で、龍馬は邸内の一室を「自然堂」と名づけて使っていました。人を泊め、荷を預かり、役所への届けを代わりに出し、金を貸す。この家に宛てた龍馬の手紙が何通も残っているのは、それだけ頼る用事が多かったからです。
宛名の伊藤助太夫と、龍馬の家族
「自然堂」の家主 下関の本陣・伊藤家の当主、伊藤助太夫(九三)は、慶応三年(1867)の初めから、屋敷の一室を龍馬に貸していました。龍馬はこの部屋を「自然堂」と名づけ、妻のお龍もここに移り住みます。龍馬が長崎や京都へ出かけているあいだ、お龍の暮らしを見守っていたのが伊藤家の人々でした。
龍馬の死のあとで 慶応三年十一月、龍馬が京都で暗殺されたとき、お龍はこの下関の伊藤家にいました。知らせを受けたお龍を支えたのは、伊藤家と、長府藩士の三吉慎蔵です。お龍はその後、三吉らの世話で土佐の坂本家に引き取られました。宿の手配を頼む短いこの一通にも、伊藤家が龍馬の公私にわたる拠り所だったことが表れています(三吉慎蔵宛の手紙も参照)。
慶応三年の秋から冬、龍馬の最後の数か月
銃を積んでの帰郷
慶応三年九月、龍馬は長崎で買い付けた小銃を船に積み、土佐へ向かいました。九月下旬には高知に入り、兄の権平や姉の乙女たち家族と五年ぶりに再会しています。十月九日付で権平に宛てた手紙は、故郷へ出した最後の手紙とされます。
大政奉還と土佐藩
十月三日、土佐藩は山内容堂と後藤象二郎の連名で、大政奉還の建白書を幕府に出しました。十月十四日に将軍慶喜が政権の返上を申し出て、翌日には朝廷の許しが下ります。龍馬はこのあと、新しい政府の骨組みを書いた「新政府綱領八策」をまとめました。十一月の初めには福井へ出向き、財政に明るい三岡八郎(のちの由利公正)と会っています。
近江屋の夜
十一月十五日の夜、龍馬は京都の近江屋で、中岡慎太郎とともに襲われました。龍馬はその夜のうちに、中岡は二日後に息を引き取っています。いろは丸事件の償い金七万両が長崎で土佐藩に支払われたのは、そのわずか八日前のことでした。
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