伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 覚書二条 一、此度の出崎ハ、非常の事件在之候ニ付、留守ニ於も相慎可申、然レバ信友のものといへども、自然堂まで不参よふ、御玄関御番衆まで御通達被遣度候事。 一、私し留守ニて他所より尋来り候もの、或ハ信友と雖ども、一飯一宿其事一切存不申事。右の事ニ仕度候間、宜御頼申上候。拝首。五月七日龍茶翁先生左右 |
| 現代文 |
| 二ヶ条を書きます。一、この度の長崎行きは非常な事件なので、留守には注意して下さい。親友であっても自然堂(龍馬が伊藤家で使っていた部屋)まで来ないよう、玄関の番の方々にお伝えください。一、私が留守で他のところから訪ねてくる人は、親友と言えども、ご飯も宿泊もさせてはならない。このこと、宜しくお願い致します。5月7日龍馬茶翁先生(下関の豪商:伊藤助太夫) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「今度の長崎行きは非常な事件がらみなので、留守中は用心してほしい。親友であっても自然堂(私の宿)まで入れぬよう門番に通達を。留守に訪ねてくる者には、たとえ親友でも一切、飯も宿も出さぬように」という、二か条の警戒指示です。五月七日付。ただならぬ緊張感が漂い、龍馬が危険な案件を抱えて動いていたことがうかがえます。
宛先「伊藤助太夫」とは
伊藤助太夫(文中の「茶翁」)は下関の豪商で、龍馬の宿の主でした。留守宅の管理まで託せるほど、深い信頼で結ばれていました。
この手紙が書かれたころ
命を狙われ、あるいは重大な機密を抱えた案件のさなかで、身辺の警戒を固めていた時期です。宿の防備にまで細かく神経を配っていました。志士たちは常に幕吏や刺客の目にさらされており、宿の戸締まりひとつが命に関わりました。用心こそが生き延びる術でした。脱藩浪士の龍馬は、藩の後ろ盾がないぶん自衛を徹底せざるを得ませんでした。この警戒ぶりに、その厳しい立場が表れています。
「非常の事件」を前にした留守の心得
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年五月七日のものとし、宛先を伊藤助太夫としています。宮地の本には、同じ日付の伊藤宛がもう一通収められています。今度の長崎行きは「非常の事件」があってのことなので、留守中は慎みたい、たとえ親しい友でも自然堂までは来ないよう玄関の番の者に伝えてほしい、留守中に訪ねてきた者には、友であっても一飯一宿のことは一切知らないことにしてほしい—と、二か条に分けて頼んでいます。
「非常の事件」とは、四月二十三日に伊呂波丸が紀州藩の船とぶつかって沈んだ一件のことでしょう。長崎での談判は五月十五日に始まります。自然堂は、龍馬が下関の伊藤家で使っていた部屋の名で、このころにはお龍も呼び寄せて住まわせていました。自分の留守に人が出入りして、あらぬ噂が立つことを警戒したのだと思われます。宛名の「茶翁先生」がどういう呼び名なのかはわかっていません。
同じころの京都—四侯会議
京都では 慶応三年(1867)五月、京都では将軍慶喜と、薩摩の島津久光・越前の松平春嶽・宇和島の伊達宗城・土佐の山内容堂の四人による話し合い(四侯会議)が開かれていました。議題は兵庫の開港と長州の処分です。薩摩は長州の寛大な処分を先に決めるべきだと主張しましたが、慶喜は兵庫開港を優先させる構えで、会議は思うように進みませんでした。
龍馬のまわりでは 同じころ、龍馬は長崎でいろは丸の沈没をめぐる紀州藩との交渉に臨もうとしていました。京都の大名たちの駆け引きと、長崎の海の上の争いとが、同じ五月に並行して進んでいたことになります。

