溝渕広之丞 宛(慶応二年十一月十六日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

溝渕広之丞 宛

原文
拝啓候。然ニ昨日鳥渡申上候彼騎銃色々手を尽し候所、何分手ニ入かね候。先生の御力ニより候ハずバ外ニ術なく御願の為参上仕候。何卒御願申上候。彼筒の代金ハ三十一両より三十三両斗かと存候。うち今一所より申来候もの四十金申候。あまり法外に高金と存候ま〃無余儀先生を労し奉候。宜しく御聞込可被下候。十六日頓首才谷梅太郎溝渕広之丞先生左右
現代文
拝啓おげんきですか。昨日ちょっと話した騎銃(騎兵隊が持つ銃)色々と手を尽くしてはいるが中々手に入らない。先生のご尽力により他は手段がなくお願い致します。何卒宜しくお願い致します。これらの代金は31両から33両ほどかと思います。あるところから聞いた話では40両と申していました。あまりに法外な高値と思いますので、やむなく先生にご苦労をおかけします。宜しくお聞き届け下さい。16日才谷梅太郎(龍馬の変名)溝渕広之丞先生(土佐藩郷士:龍馬の剣の同門)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「昨日話した騎銃(騎兵用の銃)を、あれこれ手を尽くして探しているが、なかなか手に入らない。先生のお力添えのほか手段がなく、お願いに参上しました。代金は三十一〜三十三両ほどかと思うが、あるところでは四十両と言います。あまりに法外なので、何とか」という、武器調達の依頼です。十六日付、才谷梅太郎の署名。剣の同門である相手を頼る、龍馬の実務的な一面が表れています。

宛先「溝渕広之丞」とは

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

溝渕広之丞(みぞぶち ひろのじょう)は土佐郷士で、龍馬とは剣術の同門でした。気心の知れた相手として、武器調達の骨折りを頼んでいます。

この手紙が書かれたころ

諸藩の武装が進むなか、龍馬も銃の調達に奔走していました。値段の交渉にまで細かく気を配る、抜け目のない実務家の顔がのぞきます。各藩が競って西洋式の銃を買い集め、銃の相場は高騰していました。武器を手に入れる力が、そのまま戦力に直結した時代です。剣の同門という土佐時代の縁が、こうした実務でも生きていました。郷里の人脈は、龍馬にとって何より頼れる財産でした。

「再三」訪ねてきた同郷の友への頼みごと

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、「十六日」とだけ記されたこの手紙を慶応二年十一月十六日のものと比定しています(四十番)。同じ年の十二月四日に兄の坂本権平らへ宛てた手紙で、龍馬は八月中旬から長崎にいること、江ノ口の人である溝渕広之丞に行き会って話をしたことを書き送っています。広之丞が再三訪ねてきて龍馬の考えを尋ねるので、それを書面にして送ったともあります。

宮地はその書面の下書きを、慶応二年十一月の溝淵あての手紙(三十九番)として収めています。海軍を志して国を離れた半生を述べ、父母の国を思わない者がいようかと記した一通です。騎銃の値段まで相談するこの短い手紙も、同じ月のやりとりの中に置かれます。脱藩の身の龍馬と土佐藩をつなぐ細い糸が、この同郷の友だったことがうかがえます。

同じころの日本と土佐—慶応二年十一月

世の中では この手紙の半月余りのち、十二月五日に徳川慶喜が十五代将軍に就き、さらに十二月二十五日には孝明天皇が亡くなります。幕府に好意的だった天皇の死は、その後の政局を大きく変えることになりました。

土佐では 藩の参政・後藤象二郎が長崎に出て、藩の商いと武器の買い入れを担う「土佐商会」の仕事を進めていました。宛名の溝渕広之丞は土佐藩士で、長崎で龍馬と後藤のあいだを取り持った一人とされます。かつて勤王党を弾圧した側の後藤と、脱藩した龍馬が手を結ぶのは、翌慶応三年の正月、長崎でのことでした。

慶応二年十一月、長崎の龍馬と土佐藩の人びと

同郷の友、溝渕広之丞

宛先の溝渕広之丞は土佐藩士で、このころ藩の用で長崎に来ていました。脱藩浪士の龍馬にとって、藩の側にいる旧知の友は貴重な存在です。翌慶応三年一月、溝渕は龍馬とともに長崎へ向かい、清風亭での龍馬と後藤象二郎の会談を仲立ちしました。この手紙で騎兵銃の買い付けを頼み合っている二人の行き来が、やがて龍馬と土佐藩を結ぶ糸口になります。

長崎に来ていた後藤象二郎

この年、土佐藩参政の後藤象二郎は、藩命で長崎と上海に出張し、船や武器の買い付けを進めていました。土佐藩はまだ幕府寄りの立場でしたが、長崎では、各藩が競うように洋式の銃や船を買い集めていました。手紙に出てくる銃の相場の話は、そうした長崎の空気を伝えています。

年の暮れの、兄への頼み

この手紙からひと月もたたない十二月四日、龍馬は兄の権平に手紙を書き、坂本家に伝わる刀を送ってほしいと頼んでいます。同じ日に姉の乙女にも、寺田屋の遭難や薩摩への旅を詳しく伝える長い手紙を送りました。この年の暮れ、十二月二十五日には孝明天皇が亡くなり、政局は大きく動き出します。

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