三吉慎蔵 宛(43通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

三吉慎蔵 宛

原文
何も別ニ申上事なし。然ニ私共長崎へ帰りたれバ又のりかへ候船ハ出来ず水夫らに泣々いとま出したれバ、皆泣々に立チ出るも在り、いつ迄も死共に致さんと申者も在候。内チ外に出候もの両三人計ナリ。お〃かたの人数ハ死まで何の地迄も同行と申出で候て、又こまりいりながら国につれ帰り申候。幕の方よりハ大ニ目おつけ、又長崎でも我々共ハ一戦争と存候うち、又幕吏ら金出しなどして、私水夫おつり出し候勢もあり候得共、中々たのもしきもの計ニて出行ものなし」今御藩海軍を開キ候得バ、此人数をうつしたれバと存候」今朝伊予の大洲より屋鋪にかけ合がきて、水夫両三人、蒸気方三人計も当時の所、拝借とて私し人数を屋鋪より五代才助が頼にてさし出し候」〇木圭氏に手紙〇─〇わ長崎の近時のよふを承り記したり。─を送りけるが、是ハ極内々を以て御覧被成候得バ、極テたしかなるたよりにて山口に迄御送被成度。慎蔵大人龍右七月廿八日
現代文
別段変ったことはありません。ですが、私たちが長崎へ帰り、まだ代わりの船もないので水夫らに泣く泣くいとまをだしたところ、泣く泣く去っていく者もいれば、いつまでも死を共にしたいというものもいました。この中で海援隊(当時は亀山社中)のうち、出ていったのは二、三人ばかりです。おおかたの人数は死ぬまでどこの地へも付いていくと言い、また、困った末に薩摩藩へ連れていくことになりました。幕府の方からはおおいに目をつけられて、また、長崎でも我々が戦争をしているうち、幕府がお金をもって水夫を釣り出そうとしてきたけれども、誰も付いていかなかった。今、貴藩(長府藩)が海軍を開かれるなら、この者たちを移したらどうかと思っています。今日の朝は、大洲藩より薩摩藩へ掛け合いがきて、水夫3人、蒸気方3人を派遣してほしいと薩摩藩の五代才助が亀山社中に頼みに来た。木戸氏(木戸孝允)への手紙には長崎の近況などを記すが、これはごく内々のことなので、極めて確かな書面で山口へ送って下さい。慎蔵へ龍馬7月28日

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

長府藩士・三吉慎蔵へ宛てた手紙です。長崎へ戻ったものの代わりの船がなく、水夫たちに泣く泣くいとまを出したところ、立ち去りがたく涙する者や、いつまでも死を共にしたいと言う者がいたことを伝えています。社中を去ったのはわずか二、三人で、大半は死ぬまで付いていくと誓った―苦境のなかで結ばれた固い絆が胸を打つ一通です。

宛先「三吉慎蔵」とはどんな人物か

三吉慎蔵
三吉慎蔵(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

長府藩の藩士で、槍術の名手として知られます。寺田屋事件では龍馬とともに応戦し、その脱出を助けた恩人であり、以後も龍馬が心を許して身辺の事情を打ち明ける間柄でした。

この手紙が書かれたころ

第二次長州征伐の小倉口の戦いが続くなか、船を失って組織の立て直しに苦しんでいたころの龍馬です。困難のなかでも仲間との信頼は揺るがず、その絆こそがのちの海援隊を支える土台となりました。第二次長州征伐は幕府の劣勢のまま進み、幕府の権威は大きく傾きました。倒幕へ向かう流れのなかで、志士たちの組織も再編を迫られていました。土佐藩がなお動かぬなか、龍馬は薩摩の力も借りつつ、独自の海の組織を守り抜こうとしていました。この人の集まりが、やがて海援隊として正式に船出します。

小倉口の戦いのさなかに書かれた、水夫の引き抜きをめぐる二通

「七月廿八日」とあるこの手紙を、宮地佐一郎は慶応二年と比定し、『龍馬の手紙』の三十四番に収めています。この日付は第二次長州征伐の小倉口の戦いのさなかにあたります。北九州市の解説によると、戦いは同年六月の長州軍の田野浦上陸で始まり、小倉藩が小倉城に自ら火を放つのは八月一日、両藩の和議が成るのは翌慶応三年一月です。宮地の三十六番、八月十六日付けの三吉宛てにも、七月二十七日と八月一日の小倉合戦でついに落城と聞いた、とあります。

前日の七月二十七日付けで、龍馬は木戸孝允にも手紙を書いています(三十三番)。そこには、幕府の翔鶴丸の水夫頭ら十八人が逃げ出したことや、龍馬側の気の強い水夫が一人、幕府の船に乗り込んだらしいことが記されています。三吉宛てでは、幕吏が金を出して水夫を釣り出そうとしたものの出ていく者はいなかったと書いており、二通を並べると、水夫の引き抜きをめぐる動きを龍馬が気にかけていた様子がうかがえます。原本は、宮地の本の写真説明によれば仙台市立博物館の所蔵です。

同じころの幕府—慶喜の出陣と中止

大坂と京都では 将軍家茂の死を受けて、徳川宗家を継ぐことになった一橋慶喜は、慶応二年(1866)八月、自ら長州へ出陣して決着をつけると宣言しました。ところがまもなく小倉城が落ちたという知らせが届くと、慶喜はこの出陣を取りやめ、朝廷に休戦を願い出ます。幕府の権威は、この方針転換で大きく傷つきました。

龍馬と三吉 長府藩士の三吉慎蔵は、寺田屋事件以来の龍馬の盟友です。この夏、龍馬は長崎・下関を行き来しながら、三吉を通じて長府藩・長州藩と連絡を取り合っていました。

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