坂本八平(父)宛(最古の手紙)

坂本八平(父)宛(最古の手紙)

原文
一筆啓上仕候。秋気次第に相増候所、愈々御機嫌能可被成御座、目出度千万存奉候。次に私儀無異に相暮申候。御休心可被成下候。兄御許にアメリカ沙汰申上候に付、御覧可被成候。先は急用御座候に付、早書乱書御推覧可被成候。異国船御手宛(沿岸警備)の儀は先免ぜられ候が、来春は又人数に加はり可申奉存候。恐惶謹言。九月廿三日龍尊父様御貴下御状被下、難有次第に奉存候。金子御送り被仰付、何よりの品に御座候。異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく
現代文
一筆書かせて頂きます。秋がますます深まってきまして、いよいよご機嫌もよく、めでたいことと思います。私は別段変りありません。アメリカ(ペリー艦隊)のことは兄さんへの手紙に書きましたので、そちらをご覧ください。忙しいので簡潔に書かせて頂きますね。沿岸警備(土佐藩の江戸湾警備)のことは免ぜられましたが、来春にはまた(警備の)人数に加わることになると思います。9月23日龍馬お父様へお手紙を頂きましてありがとうございます。仕送りも頂きまして何より助かりました。外国の船(ペリー艦隊やプチャーチン艦隊など)が日本に来ているので出陣も近いかと思います。その際は、外国人の首を打ち取って帰国したいと思ってます。かしく(手紙の文末にかく言葉)
目次

この手紙について

現存する坂本龍馬最古の手紙とされる一通で、嘉永六年(一八五三)九月、剣術修行のため江戸に出ていた十九歳の龍馬が、父・八平へ宛てた近況報告です。ペリー艦隊来航直後の緊張のなか、土佐藩が命じた江戸湾岸の警備のことや、仕送りへの礼を、簡潔な武家の書式でつづっています。末尾の「異国の首を打取り、帰国仕るべく」という一句に、黒船を前にした若者の血気がにじみます。

宛先「坂本八平」とはどんな人物か

龍馬の父で、高知城下の郷士(下士)坂本家の当主です。本家は質屋・酒造で財を成した豪商・才谷屋で、坂本家は下士ながら裕福でした。八平は龍馬を江戸剣術修行に送り出す際、身を慎むべき心得を持たせたと伝わります。

この手紙が書かれたころの龍馬の境遇

このころの龍馬は北辰一刀流・千葉道場で剣を磨く一修行者にすぎず、まだ天下を論じる立場ではありませんでした。しかし江戸湾に現れた黒船を間近に見た衝撃が、のちの海と国防への志の遠い芽となっていきます。

幕末全体の動き(嘉永六年)

この年六月、ペリーが四隻の艦隊で浦賀に来航し開国を迫りました。二百年余りの泰平の眠りが破られ、幕府は前例のない対応に揺れ、諸藩は江戸湾の防備に駆り出されます。日本が大きく動き出す、まさにその入り口の年でした。

土佐藩の当時の動き

土佐藩も幕命により江戸湾岸の警備を分担しており、修行中の龍馬もその人数に加えられていました。遠国土佐にも及んだ黒船の衝撃は、のちの藩政改革や尊皇運動へとつながる、時代の地鳴りの始まりでもありました。

本文と追って書きの二段構え、兄への「アメリカ沙汰」と来春の警備

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙が第一番に置かれています。龍馬自身が記した日付は「九月廿三日」だけで、嘉永六年という年は宮地による比定です。黒船の話題や江戸での警備の役目への言及が、その手がかりになっています。底本の注記には、出典として「坂本龍馬関係文書第一」と野島家文書が示されています。

手紙は「恐惶謹言」でいったん結ばれ、そのあとに父からの手紙と送金への礼を述べる追って書きが続きます。本文では、アメリカのことは兄のもとへの手紙に書いたので見てほしいと頼み、警備の役目はひとまず免じられたものの、来春はまた人数に加わるだろうと見通しています。ペリーは翌嘉永七年一月に再び来航しており、この見通しはその時期と重なります。同じ嘉永六年にはロシアのプチャーチンも長崎に来航しており、追って書きの「異国船処々に来り」はこうした状況を指すものと読めます。

坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

坂本龍馬の手紙の一覧を見る

  • URLをコピーしました!
目次