順風丸【福山藩 輸送船 幕末軍艦】

順風丸
藩名 備後福山藩
藩主 阿部正方
船種 輸送船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図
順風丸のイメージイラスト
順風丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

■ 詳細
長18間5尺・幅4間1尺・800トンの帆船で国産です。順風丸は福山藩の藩船で、幕末の文久二年六月十八日に進水式を行い、その後九月二十八日に竣工されました。

造られた場所は、鞆港の江の浦元町界隈にあったとされる船座で造られた可能性が高いと伝わります。また、中浜万次郎(ジョン万次郎)が西洋型の汽船の雛形を作りそれをもとに建造されたそうです。

目次

所属した福山藩と幕末の動き

この軍艦・順風丸を運用したのは、備後の備後福山藩(阿部家)です。十万石の譜代藩で、洋式の船をそろえていました。

一隻だけの海軍だった

当サイトでは幕末の艦船を二十八の勢力に分けて扱っています。そのうち十四の勢力は、一隻しか名前が残っていません。福山藩もその一つで、記録に残る艦は順風丸だけです。

三十八隻を揃えた幕府、十六隻の薩摩藩、十二隻の佐賀藩、十一隻の長州藩、十隻の土佐藩—こうした数字と並べると、一隻という数の意味が見えてきます。蒸気船は買うだけでなく、燃料を手配し、機関を扱える者を育て、修理の場所まで用意しなければ動きません。一隻を持つことさえ、小さな藩には重い買い物でした。

同じく一隻だけが記録に残っているのは、福岡藩、大洲藩、松江藩、備中松山藩、紀州藩、大野藩、加賀藩、仙台藩、庄内藩、南部藩、弘前藩です。北は弘前から南は福岡まで、海に面した藩が一隻ずつ船を持った。その一隻が藩にとって何だったのかは、船の種類と買った年から読み取るしかありません。

福山藩といえば、幕末の名宰相・阿部正弘を出した家として知られます。正弘は老中首座としてペリー来航に対応し、開国へと舵を切りながら人材を広く登用しました。藩は譜代であったため戊辰戦争では当初朝敵とされ、長州軍に城を攻められますが(福山戦争)、恭順して存続を許されます。順風丸は、開国を導いた宰相の藩・福山の一隻です。

幕末軍艦一覧リスト

八百トンという数字は、疑ってかかる必要があります

この記事は順風丸を長さ十八間五尺・幅四間一尺で八百トンとしています。ところが、ほぼ同じ大きさの函館丸は長さ十八間・幅四間で五十六トンです。同じくらいの木造帆船が五十六トンと八百トンに分かれることは考えにくく、「八百石」を取り違えた数字ではないかと思われます。断定はできませんが、そのまま受け取らないほうがよさそうです。

中浜万次郎との関わりは、わかっていません

ジョン万次郎こと中浜万次郎が雛形を作ったという話については、裏づけが取れませんでした。万次郎が造船を指導した記録があるのは嘉永四年の薩摩藩と土佐藩の教授館で、福山藩や鞆との関わりを記した資料は見あたりません。強いて言えば、万次郎を幕臣に取り立てたときの老中首座が福山藩主の阿部正弘でしたが、正弘は安政四年六月十七日に亡くなっており、この船が造られた文久二年とは五年の隔たりがあります。鞆の船座で造られたという話についても、福山市の資料が扱っているのは港を見張る「船番所」で、造船の「船座」とは別のものです。

表の藩主を改めました

この記事の表は藩主を阿部正弘としていましたが、正弘は安政四年に亡くなっています。文久二年の藩主は、兄の正教が早世したあとを受けて文久元年六月に十四歳で家督を継いだ阿部正方です。正方は嘉永元年の生まれで、慶応三年十一月二十二日に福山城内で二十歳で亡くなりました。その死は時局のために伏せられ、慶応四年正月九日の未明に仮埋葬されます。その数時間後に、長州軍が福山城を攻めました。

順風丸を船の型と持ち主から読む

順風丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。

参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の福山藩—老中・阿部正弘の藩

阿部正弘 福山藩(阿部家十一万石)の藩主・阿部正弘は、二十五歳で老中となり、のちに老中首座として、ペリー来航の難局で日米和親条約を結んだ人物です(阿部正弘とは)。正弘は身分にとらわれずに人材を登用し、勝海舟らを取り立て、長崎の海軍伝習所や講武所、蕃書調所をつくって、幕府の近代化の道を開きました。

藩の改革 正弘は福山藩でも藩校・誠之館を開くなど改革を進めましたが、安政四年(1857)、三十九歳の若さで亡くなります。福山藩が洋式の船を持とうとしたのも、海防を説いた正弘の考えを引き継いだものでした。

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