| 神風丸 | |||
| 藩名 | 津藩 | ||
| 藩主 | 藤堂高猷 | ||
| 船種 | スクーナー船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

長18間・幅5間の国産された船です。
神風丸は万延元年(1860年)4月に初航海しています。3本のマストが確認できります。勝海舟が記した記録によると「津藩 スクネル型 長十八間 幅五間 深三間四尺」と書かれています。
国産船の神風丸は乗組員の質にも問題があり、期待される十分な性能を見せることも無く活躍することはなかったようです。スクーナー型で、明治元年(1868年)には、岩田橋河口の贄崎に係留されたままになっていたといいます。
津藩が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている津藩の艦船は二隻で、内訳は帆船が一隻、その他が一隻です。
- ビーテルランデルク/スクリュー汽船
- 神風丸(この記事)/スクーナー船
目を引くのは、蒸気船ではなく帆船が中心だという点です。蒸気船は高く、燃料と機関の手当ても要ります。帆で動く船を揃えるところから始めた藩も、少なくありませんでした。
幕末の最後の藩主・藤堂高猷(たかゆき)は、当初は幕府方の立場でしたが、鳥羽・伏見の戦いで戦局が変わると新政府方へと転じました。大藩を保つための現実的な判断でした。神風丸は、そんな津藩が海防のためにそろえた一隻でした。
この船の記録が、見つかりません
神風丸について、津藩の船として記した資料を見つけられませんでした。幕末の諸藩の船を並べた一覧にも、津藩の項目そのものがありません。建造地も、誰が造ったのかも、読み方も分からないままです。勝海舟の『海軍歴史』の船譜に「津藩 スクネル型」と載っているという話も、その本にあたることができずわかっていません。三重県立図書館が『津藩史稿』という郷土史の翻刻を公開していますので、そちらに手がかりがあるかもしれません。
同じ名の船が、熊本藩にもあります
神風丸という名は熊本藩の船にもあります。こちらはイギリス製で、慶応三年六月に長崎で三万五千ドル、三百六十五トンという記録が残っています。津藩の国産の帆船とは別の船です。
藤堂家が向きを変えた日
藤堂高猷の転身は、慶応四年正月のことです。津藩は幕命で山崎の関門を守っていましたが、正月五日に勅使の四條隆平が陣を訪れて官軍を助けるよう命じ、藩は方針を変えました。そして翌六日、藤堂采女を総帥として、山崎の高浜砲台から淀川の対岸にある楠葉の台場へ砲を向けます。横腹を撃たれた旧幕府軍は崩れ、橋本の関門は破られました。藩祖の藤堂高虎になぞらえて裏切り上手と罵られ、その汚名は長く語り継がれます。なお正月五日に淀城が旧幕府軍の入城を拒んだのは別の出来事で、津藩の砲撃と混同されがちです。高猷は文化十年二月九日の生まれで、明治二十八年二月九日に八十三歳で亡くなりました。生まれた日と同じ日に世を去っています。
神風丸を船の型と持ち主から読む
神風丸は帆走の船です。機関も石炭もいらない帆船は、藩にとって安く使いやすい運び手でした。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー船」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している津藩の船は、この神風丸を含めて2隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ津藩の船には、ビーテルランデルク(スクリュー汽船)があります。
持ち主の津藩の幕末をふり返ると、鳥羽・伏見の戦いの途中で新政府側に転じる。神風丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の津藩—藩校・有造館と斎藤拙堂
有造館
津藩は文政三年(1820)に藩校・有造館を開き、学問に力を入れた藩として知られます。その中心にいたのが儒学者の斎藤拙堂で、拙堂は西洋の事情にも目を向け、海の守りの大切さを説く海防論を著しました。拙堂の門からは、幕末に活躍する多くの人材が出ています。
船の必要
伊勢湾に面した津藩にとって、海の守りは身近な問題でした。神風丸のような洋式の船は、拙堂らが説いた海防の考えを、藩が形にしようとしたものだったといえます。



