| 波多 恭輔 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
波多恭輔は彦太郎の弟で土佐藩出身の海援隊士です。
兄と同じく河田小竜の門で勉強していました。しかし、周りの皆が志を目指して脱藩する中、恭輔も脱藩し長崎の亀山社中へ身を投じました。
また、明治になって大村益次郎暗殺の嫌疑で逮捕されました。
以下、詳細は不明です。

この隊士について
本文に記した経歴——波多彦太郎の弟であること、河田小竜の門下だったこと、そして明治になって大村益次郎暗殺の嫌疑で逮捕されたこと——は、今回調べた範囲では確認できませんでした。
大村益次郎の襲撃は明治二年九月四日、京都三条木屋町の旅館で起きました。実行犯は団伸二郎・神代直人ら元長州藩士八人とされ、土佐藩士や海援隊関係者の関与を記した資料は見当たりません。参考にした書籍以外の裏付けが取れていない、とお含みおきください。
亀山社中と海援隊について
亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。
ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。結成時に龍馬が長崎にいなかった可能性も指摘されており、実際に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らだったとする研究もあります。
慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。海援隊約規は目的を「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と定めており、射利——つまり利益追求を堂々と掲げていたのが特徴です。
隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。残っているのは『海援隊日史』『海援隊商事』(いずれも京都国立博物館蔵・重要文化財)などの記録類で、名簿ではありません。
そのため周辺の隊士は、生没年すら分からない人が少なくありません。海援隊が脱藩者を主体としたことも、記録が残りにくい理由の一つです。藩の人別帳や履歴から外れてしまうためです。
くわしくは海援隊士全56名情報をご覧ください。
▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧——龍馬がつくった「会社」に集まった五十四人

