岡田藩/伊東家1万343石:伊東長𫡰 岡山藩の勧めで新政府に帰順し備中松山藩の追討に加わった岡田藩

岡田藩 伊東家1万343石 最後の藩主 岡山藩の勧めで新政府に帰順し備中松山藩の追討に加わった岡田藩
目次

岡田藩の歩み

藩主家の伊東氏は日向国飫肥藩主の伊東氏と遠い先祖を同じくするとされますが、伊東祐親の子・祐清の流れをくむ尾張伊東氏で、飫肥の伊東氏とは別の系統です。藩祖「伊東長実」は豊臣秀吉・秀頼に仕えて「大坂の陣」まで豊臣氏の家臣でした。関ヶ原の戦いに際し、上方での石田三成挙兵の報をいち早く「徳川家康」に伝えたとされます。「大坂の陣」では子の長昌と「豊臣秀頼」に従い家康に敵対し、大坂城に籠城するも戦後許されています。元和元年(1615年)、備中国下道郡・美濃国池田郡・摂津国豊島郡・河内国高安郡の各郡内にて一万三百四十三石を与えられ岡田藩を立藩しました。

慶応四年(1868年)一月二十三日、新政府の要請に応じて上洛し新政府支持の姿勢を示します。戊辰戦争が勃発すると岡山藩と共に新政府軍に与して、幕府軍側の備中松山藩の討伐に加わります。明治二年(1869年)六月二十三日、版籍奉還により岡田藩知事となり、明治四年(1871年)七月、廃藩置県により藩知事を免官となり、東京に移りました。

備中岡田の伊東家

岡田藩は、備中国(現在の岡山県倉敷市真備町岡田)に置かれた一万石余りの藩で、藩主は伊東家、陣屋を構える小藩でした。高梁川の流域、備中平野の一角を治めた藩です。

備中松山藩の討伐に加わる

戊辰戦争において岡田藩は、いち早く新政府に帰順しました。そして、老中・板倉勝静を藩主にいただき朝敵とされた隣国の備中松山藩を討つ軍にも加わっています。同じ備中の藩でありながら、一方は新政府方、一方は朝敵と、明暗が分かれたのです。近隣の藩どうしが敵味方に分かれた、幕末の複雑な情勢を映す一件です。

最後の藩主の名と、隣の藩を攻めた選択

この藩の最後の藩主は伊東長𫡰で、読みは「ながとし」です。「長寿」と書かれることがありますが誤りです。石高は一万三百四十三石でした。

十七歳で継いだ藩主

長𫡰は弘化元年(1844年)に生まれ、九代長裕の養子として万延元年(1860年)十二月に十七歳で家督を継ぎました。文久元年(1861年)に従五位下・播磨守。慶応四年(1868年)一月二十三日に上洛して新政府への支持を明らかにしています。鳥羽伏見の戦いから三週間ほどのことで、判断は早いほうでした。

この帰順は、隣の大藩である岡山藩の勧めによるものだったと伝わります。そして岡田藩は、朝敵とされた備中松山藩の追討に加わりました。備中には小藩が細かく分かれており、鳥羽伏見のあと、どちらにつくかで隣り合う藩が敵味方に分かれています。一万石の藩にとって、大藩の勧めに従うことが家を残す道でした。明治二年(1869年)六月に藩知事となり、明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ、明治三十三年(1900年)に亡くなっています。

二つの「がっかん」

藩校は敬学館で、寛政七年(1795年)に八代の伊東長寛が創設しました。この長寛は前の年、寛政六年(1794年)に武芸の稽古場である教学館も設けています。読みも字面も似ているため、資料を読むときに混同しやすいところです。長寛は重臣の浦池九淵を用いて藩の財政を立て直した人でもあります。

小学校になった陣屋跡と、新本義民騒動

岡田の陣屋は、元禄十四年(1701年)に五代の伊東長救が岡田村の山屋敷へ移したものです。それ以前は、元和二年(1616年)にまず服部村に置かれ、寛永元年(1624年)に一時上二万村へ移ったのち、川辺村の土居屋敷にありました。跡地は現在の倉敷市立岡田小学校の敷地で、遺構はなく、校門の内側に「岡田藩趾」の碑が立っています。学校の敷地内なので自由には見られません。近くの真備ふるさと歴史館では、岡田藩の古文書が公開されています。

この藩で忘れられていないのが、享保三年(1718年。享保二年とする資料もあります)の新本義民騒動です。新庄村・本庄村にまたがる大平山と春山は村人が共同で使う入会地でしたが、藩はこれを「お留山」として立ち入りを禁じ、木の伐り出しと陣屋までの薪運びを課しました。村の代表四人が江戸へ出て藩主に直訴し、お留山と賦役は取り消されましたが、直訴した四人は処刑され、家族や加わった人々も領内から追放されています。四人は義民四人衆と呼ばれ、いまも新本に義民碑が建っています。伊東家は転封のないまま十代二百五十六年この地を治めており、その長い支配のなかの出来事です。廃藩後は岡田県となり、深津県、小田県を経て明治八年(1875年)十二月に岡山県へ合併されました。

大坂城の中から知らせを送った男—伊東長実と岡田藩

秀吉の黄母衣衆

岡田藩の藩祖・伊東長実は、永禄三年(1560年)尾張の生まれで、秀吉の親衛隊・黄母衣衆の一人でした。三木城攻めでは信長から金の熨斗付きの刀と脇差をもらい、小田原攻めの功で備中川辺に一万三百石を得ています。家格は外様です。

大坂城の中の「間者」

大坂冬の陣のとき、長実は豊臣方として大坂城の三の丸・天神橋を守っていました。しかしその一方で、城内の様子を京都所司代の板倉勝重に知らせていたとされます。夏の陣では落城前に城を出て高野山に隠れました。大坂方にいながら存続を許された大名は長実だけで、異例の扱いでした。跡を継いだ次男・長昌の妻は板倉勝重の養女です。長実の墓は文京区向丘の高林寺にあり、同じ寺には備中足守出身の緒方洪庵の墓もあります。

川辺の殿様と、七十二年の当主

岡田藩は「川辺藩」「川辺の殿様」とも呼ばれました。元和二年(1616年)に下道郡服部村に藩邸を置き、その後、西国街道の宿場・川辺村に移っています。八代の長寛は安永七年(1778年)に家を継ぎ、嘉永三年(1850年)に八十七歳で亡くなるまで、七十二年も当主の座にありました。

金田一耕助の村のモデル

岡田(いまの倉敷市真備町)には、作家・横溝正史の疎開宅が残っています。作品に出てくる「鬼首村」の設定には、岡田藩が一部取り入れられたとされます。真備ふるさと歴史館(入館無料)では岡田藩の資料が見られます。大坂城の中から徳川に知らせを送った殿様の家と、探偵小説の村。岡田には、二つの「謎」の物語が重なっています。

岡田藩をもっと詳しく

四つの国に散らばった1万343石

岡田藩の1万343石は、備中の一か所にまとまっていたわけではありません。中心は備中国下道郡の10か村で、ここだけで7,500石余りありました。残りは美濃国池田郡の2か村、摂津国豊島郡の1か村、河内国高安郡の2か村に分かれています。美濃国池田郡は、いまの岐阜県の西部にあたります。備中・美濃・摂津・河内と、四つの国に村を持つ1万石の藩でした。

合計の石高を1万3,000石余りとする資料もあります。豊島郡はいまの大阪府北部、高安郡は大阪府八尾市のあたりで、備中の陣屋から見ればはるか遠くの村でした。

藩祖・長実の出世の道すじ

伊東長実は永禄3年(1560年)、尾張の岩倉に生まれました。天正元年(1573年)ごろから父の伊東長久とともに秀吉に仕え、天正4年(1576年)には黄母衣衆に抜擢されました。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは槍働きをほめられて、越前に600石を与えられます。翌天正12年(1584年)には平野長泰の知行から480石を分けられ、合わせて960石になりました。天正13年(1585年)に父が亡くなると家督と役目を継ぎ、秀吉の馬廻組頭となりました。このとき摂津で230石を加増されています。その後、天正19年(1591年)に備中川辺で1万300石を与えられて大名となり、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では肥前名護屋に詰め、文禄4年(1595年)には秀吉の草津での湯治に際して野尻宿の警備を務めました。その前年の文禄3年(1594年)には、播磨の山国村なども加えられています。

関ヶ原の戦いの直前、慶長5年(1600年)6月16日には、会津征伐に向かう家康のもとを訪ね、石田三成らの挙兵の動きを知らせたとされます。大坂の陣のあと、元和元年(1615年)7月ごろに秀忠に仕えることを許され、寛永6年(1629年)2月17日に亡くなりました。法号は雲山宗徳です。豊臣の直臣でありながら徳川とも通じたその動き方は、後世には「陰険」と評されたこともあります。

高野山からの通報と、許された長実

元和元年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の最後の戦いとなった天王寺・岡山の戦いで、長実は遊軍として後方にいました。落城の前に子の長昌と城を抜け出し、高野山に身を隠します。5月19日には高野山の僧から幕府へ長実親子の居場所が知らされましたが、幕府は罪に問いませんでした。

背の高さで侍になった農民

岡田藩には、背が高いことを理由に士分に取り立てられた農民・小田大三郎の話が伝わっています。身の丈は6尺(約1.8メートル)を超え、差していた太刀は5尺4寸もあったといいます。1万石の小さな藩の、少し変わった人材登用の話です。

同じ備中の小藩たち

備中には小さな藩が入り組んでいました。岡田藩のほかにも、緒方洪庵の生まれた足守藩、板倉家の庭瀬藩などがあり、幕末には朝敵とされた備中松山藩への対応をそれぞれ迫られました。岡田藩は伊東家が10代256年にわたって一度も国替えなしに治めた藩です。

動員できた兵の目安

慶安2年(1649年)に定められた軍役の規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっていました。これを岡田藩の1万343石に当てはめると243人、十人単位に丸めて240人ほどが目安です。この規定は案のまま発布されなかったという説もあります。同じ割合で数えると、隣の大藩である31万5,000石の岡山藩は7,400人ほどになり、30倍以上の差がありました。新政府への帰順を勧めた相手が、それだけの力を持つ隣人だったことがわかります。

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