倉吉藩/里見家3万石:里見忠義 名門里見氏が安房国から移封され立藩された倉吉藩

倉吉藩 里見家3万石 最後の藩主 里見忠義
目次

倉吉藩の歩み

倉吉藩の藩主となった里見忠義は、戦国時代に安房を治めた里見義堯の子孫にあたる外様大名です。忠義は館山藩主として、安房一国と常陸鹿島郡を合わせた十二万二千石を治めていました。ところが慶長十九年(1614年)、大久保忠隣が改易されると、忠隣の孫娘を妻としていた忠義も巻き込まれ、九月九日に安房一国を取り上げられます。

ただし、関ヶ原の戦いの手柄で加えられていた常陸鹿島の三万石については、その代わりとして伯耆の倉吉に領地が与えられることになりました。倉吉へは堀江頼忠・正木時茂・板倉昌察らの重臣が付き従いましたが、ついて来た家臣は多くありませんでした。

倉吉に着いた忠義に渡された領地は、実際には四千石ほどにすぎず、国替えというより流罪や蟄居に近い扱いでした。忠義は倉吉城に入ることもなく、神坂村に住んでいます。元和三年(1617年)に池田光政が鳥取藩主となると、重臣の伊木忠貞が倉吉に入り、忠義は事実上池田家に預けられる身となりました。四千石の領地も取り上げられ、百人扶持を与えられて、倉吉の郊外の下田中村へ移されています。

元和八年(1622年)に忠義は没したが、この時嗣子はなしとされ里見氏は改易に処されました。倉吉の所領は、鳥取藩の属領として組み込まれました。

殉死した「八賢士」と八犬伝のモチーフ

忠義が29歳で没した3か月後、最後まで付き従った家臣8名が殉死し、忠義の戒名から「賢」の字を取った戒名を与えられて「八賢士」と呼ばれるようになりました。主君と家臣が並んで眠る大岳院の墓所は、後に滝沢馬琴が著した『南総里見八犬伝』の八犬士のモチーフになったとも言われ、倉吉は今も里見伝説ゆかりの地として知られています。

【廃藩のあと—幕末の倉吉】

里見家が絶えたあとの倉吉は、鳥取藩の家老 荒尾氏が預かりました。1632年から陣屋を構え、陣屋町として発展したと倉吉市観光協会は説明しています。倉吉市の公式も「江戸時代には、鳥取藩の家老荒尾氏の陣屋町となり」と記しています。

この荒尾氏は米子の荒尾氏と同族です。荒尾善次の子 成房(但馬守)が米子荒尾家一万五千石の祖、その弟 隆重(志摩守)が倉吉荒尾家一万二千石の祖という兄弟分家でした。どちらも藩主から所領支配の全権を委ねられる「自分手政治」で、幕末まで二百年以上にわたって統治しています。鳥取藩には、米子と倉吉に小さな藩がもう二つあるような形だったわけです。

打吹城が廃された年

打吹城は室町時代に山名師義が築いた城です。倉吉市観光協会は「1615年に一国一城令が出され、伯耆国では米子城以外の城郭が取り壊され、打吹城は廃城になった」としています。元和元年のことです。忠義が倉吉城に入ることもなく神坂村に住んだのは、この直前にあたります。

千歯と絣の町

倉吉が財を成したのは藩ではなく商いでした。打吹玉川の伝統的建造物群保存地区について、市は「室町時代に打吹山城下に築かれた城下町は、江戸時代末期から大正時代に稲扱千歯や倉吉絣などの商いで財を成した商家によって発展」と説明しています。

稲扱千歯は県内の良質なたたら製鉄を背景にした鉄の道具で、全国シェアの八割を占めたともいわれ、職人が全国を行脚して修繕と販売をしました。倉吉絣(「倉吉絞り」ではなく絣です)の起源は江戸時代末期とされます。

白壁土蔵群と、八賢士の墓

倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区は国の重要伝統的建造物群保存地区で、種別は商家町。選定は平成十年十二月二十五日、範囲の拡大が平成二十二年十二月二十四日で、面積はおよそ九・二ヘクタールです。

大岳院には里見忠義の所蔵品と伝わる「三彩稜花刻花文盤」があり、鳥取県指定工芸品(昭和二十九年九月二十一日指定)になっています。忠義の死後に寄進されたと伝わるものです。一方、忠義と八賢士の墓そのものは、国・県・市いずれの指定文化財一覧にも見あたりませんでした。打吹城跡も同様です。

「倉吉の千歯扱き及び関連資料」は国の登録有形民俗文化財で、平成二十七年三月二日の登録。千歯扱き百四十七点と関連資料六十五点の計二百十二点です。絣の技術保持者 福井貞子は鳥取県指定無形文化財(平成十七年十一月二十九日指定)。藩の遺構ではなく、商いの道具が文化財になった町です。

台場は海辺に八か所

鳥取藩は文久三年(1863年)、藩内八か所(因幡三か所、伯耆五か所)で台場の築造に着手し、翌元治元年に完成させました。ただし場所は浦富・浜坂・賀露・橋津・由良・赤碕・境・淀江の沿岸八か所で、内陸の倉吉には置かれていません。倉吉や荒尾氏が台場築造に関わったことを示す公的な記述も見つかっていません。海防の時代に、倉吉は鉄の道具を作り続けていたことになります。

安房の名門、伯耆に眠る

倉吉へ従った家臣たち

里見忠義に従って倉吉に来た重臣には、堀江頼忠・正木時茂・板倉昌察がいたとされます。池田家側からは重臣の伊木忠貞が倉吉に入りました。忠義の母は織田信長の姪とされ、伯耆3万石は「鹿島3万石の替地」として与えられたともいわれます。

堀村への移転

倉吉観光の資料によると、忠義は元和3年(1617)に下田中村へ、元和5年(1619)には堀村(現在の倉吉市関金町堀)へ移されました。堀村の最後の居所の跡には「里見主従の廟」があります。忠義は元和8年(1622)6月に29歳で亡くなり、遺言どおり大岳院に葬られました。遺骨の一部は高野山にも納められています。

社殿の修造と里見まつり

忠義は倉吉の北野天神、北条の山田八幡、山長大明神などの社殿を修造しました。大岳院には忠義が寄進したと伝わる「三彩稜花刻花文盤」(鳥取県保護文化財)があり、境内には八体の石の犬が置かれています。毎年9月には「倉吉せきがね里見まつり」が開かれ、武者行列が白壁土蔵群を練り歩きます。

考察:『八犬伝』の向こうにある実在の主従

大岳院の八体の石の犬は、『南総里見八犬伝』の物語と、忠義に殉じたと伝わる家臣たちを重ねて見る人も多いでしょう。物語の華やかさの陰に、配流先で社殿を直し、主従で眠る実在の人々がいたことを伝えたいと思います。

場所・アクセス・地図

中国地方の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次