【藩名】
米子藩
【説明】
慶長14年(1609年)5月11日、「中村一忠」は20歳の若さで急死しました。一忠には3人の子供がいたが領国の継承は認められず中村氏は改易となりました。慶長15年(1610年)7月19日、美濃黒野藩主「加藤貞泰」が2万石の加増を受け6万石で米子に入封します。貞泰は「大坂の陣」において戦功を挙げたことから、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に移封となり、ここに米子藩は廃藩となりました。
【廃藩のあと——幕末の米子】
加藤貞泰が伊予大洲へ移ったあと、米子は鳥取藩の領内に入りました。ただし普通の藩領とは事情が違います。寛永九年(1632年)に荒尾成利が城代となって以来、明治二年(1869年)まで十一代二百三十七年にわたり、鳥取藩の首席家老・荒尾氏が米子城を預かりました。家禄は一万五千石。藩主から所領支配の全権を委ねられ、独自に統治する「自分手政治」と呼ばれる仕組みです。藩ではないけれども、小さな藩がもう一つあるような形でした。
幕末には海防の動きが出ます。文久三年(1863年)、鳥取藩は領内八か所に台場を築き、その一つが米子の淀江台場でした。松波宏年が自分の田畑を無償で提供し、長崎で蘭学と築城法を学んだ長男の宏元が設計しています。土塁は長さ約六十五メートル、高さ約五メートルで、いまも「お台場公園」として残ります。
米子城は明治六年(1873年)に建物が売られて取り壊されましたが、石垣は良好に残り、国史跡に指定されました。荒尾家の墓所は了春寺にあり、歴代城主の墓碑が並んでいます。淀江台場跡も国史跡です。
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加藤家のその後――大洲藩として迎えた幕末
米子を離れた加藤貞泰の子孫は伊予大洲藩6万石の藩主として続き、幕末の藩主加藤泰秋の代を迎えました。泰秋は勤皇派として小御所会議での京都御所警備や鳥羽・伏見の戦いへの加担、甲府城警備、明治天皇東京行幸の護衛などを務め、一貫して新政府側で活躍しています。
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