近江高島藩(大溝陣屋)の歩み
佐久間安政は、織田信長のもとで「鬼玄蕃」の異名をとった武将「佐久間盛政」の弟です。盛政は柴田勝家に従い「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に捕えられ首をはねられました。安政は信長や柴田勝家、そして兄の盛政死後、「豊臣秀吉」の家臣となり近江国内において七千石を領していました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では家康率いる東軍に与して戦功を挙げたため、八千石を加増されて合計一万五千石を領する大名となりました。

そして近江高島藩を立藩しました。慶長十二年(1607年)にはさらに常陸国五千石を加増され、「大坂の陣」でも家康に属して武功を挙げたため、さらに1万を加増の上で信濃国飯山藩三万石に移封されました。近江高島の地は飯山藩の飛び地となったが、安政の孫である「佐久間安次」が寛永十五年(1638年)に夭逝して佐久間氏は無嗣改易となり、近江高島も天領(幕府領)となりました。
この土地には、そのあと二百五十年続く藩が置かれました
近江高島が天領になったあとの話を補っておきます。元和五年(1619年)、分部光信が伊勢上野から二万石で入って大溝藩が成立し、分部家が明治維新までおよそ二百五十年この地を治めました。
幕末の藩主は十一代分部光貞です。文久三年(1863年)の八月十八日の政変では自ら兵を率いて京都の守備にあたり、孝明天皇から賞されて金子を賜りました。明治三年に五十五歳で亡くなり、跡を次男の分部光謙が九歳で継ぎます。そしてここが面白いところです。光謙は明治四年六月、廃藩置県を待たずに自分から廃藩を願い出て受理され、大溝藩は大津県に編入されました。廃藩置県の前に自分から藩を畳んだ、珍しい例です。
藩校は天明五年(1785年)に八代分部光実が開いた「修身堂」で、近江の諸藩に先駆けて開かれたものでした。跡地にはいま標石だけが残ります。
大溝城は天正六年(1578年)に織田信澄が築いた水城で、縄張は明智光秀といわれます。いまも天守台とその石垣が残り、東西二十四メートル、南北二十九メートル、高さ約五メートル。花崗岩の野面積みで、西側中央の角は算木積みです。平成八年に町の文化財となりました。
陣屋のほうは、光信の入封後に三の丸へ構えられ、総門を境に南が武家屋敷地、北が町人地という区切りでした。そしてこの総門が現存します。左右に細長い建物がつく長屋門の形で、大溝陣屋で唯一残る建造物です。高島市が買い上げて市の有形文化財とし、2024年4月からは重要文化的景観の拠点施設として使われています。周辺は平成二十七年に「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に選ばれました。
佐久間安政が移った飯山藩のその後も書いておきます。孫の安次が改易されたあと松平家などを経て、享保二年(1717年)に本多助芳が越後糸魚川から二万石で入り、本多家が維新まで続きました。幕末には旧幕府軍の衝鋒隊が飯山藩領へ侵入し、はじめ日和見だった藩がにわかに発砲に転じて、城下が被害を受けています。
賤ヶ岳のあとの佐久間兄弟
近江高島藩の佐久間安政は、柴田勝家の甥で、「鬼玄蕃」と呼ばれた猛将・佐久間盛政の弟です。天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が羽柴秀吉に敗れて処刑され、叔父の勝家も北ノ庄城で自害すると、安政と弟の勝之は秀吉の追及を逃れて東へ落ち、関東の北条氏や徳川家康のもとを頼りました。その後、秀吉に許されて仕え、関ヶ原の戦いでは兄弟そろって東軍につきます。賤ヶ岳で滅んだ柴田方の一族から、兄弟二人がともに大名として立ち直ったのです(弟・勝之のことは長沼藩の項を参照)。
信長の重臣・佐久間信盛との違い
同じ佐久間の名をもつ人物に、織田信長の重臣だった佐久間信盛がいます。信盛は信長の父・信秀の代から仕えた宿老で、石山本願寺との戦いの総大将を務めましたが、天正八年(1580)、戦いぶりの消極さを信長に責められ、高野山へ追放されました。安政・盛政兄弟の家は、この信盛とは別の流れの佐久間氏です。尾張には佐久間の名をもつ一族がいくつもあり、それぞれが織田家のもとで異なる運命をたどりました。
飯山と大溝
安政が移った信濃の飯山は、のちに本多家が治めて幕末を迎え、戊辰戦争では衝鋒隊との戦いの舞台となりました(村山藩)。一方、安政が去ったあとの近江高島には伊勢上野から分部家が入り、大溝藩として明治まで続いています(伊勢上野藩)。
近江高島藩をもっと詳しく
藩祖・佐久間安政の歩み
佐久間安政は弘治元年(1555年)、織田家の武将・佐久間盛次の次男として尾張に生まれました。はじめは紀伊・河内の守護畠山氏の家臣、保田知宗の婿養子となって「保田久六」と名乗っています。畠山氏が没落すると、養父や兄弟とともに織田信長に仕え、最初は佐久間信盛の下で石山本願寺攻めに加わりました。天正四年(1576年)には、本願寺勢に攻められた住吉の海岸の砦を守ったことが『信長公記』に記されています。
のちに柴田勝家の配下となり、賤ヶ岳の戦い(1583年)では兄・盛政の隊の先鋒として、余呉湖のほとりで中川清秀の隊と戦いました。清秀を討ち取ったものの合戦全体では敗れ、兄の盛政は処刑、養父の保田知宗も討ち死にしています。安政と弟の勝之は紀州の保田氏の領地へ逃れ、小牧・長久手の戦いのときには雑賀衆・根来衆とともに家康方について、岸和田城の中村一氏と戦いました。
秀吉が紀州を平定すると、兄弟は家康の口添えで小田原の北条氏に身を寄せます。北条氏が滅んだあとは、親類にあたる奥山盛昭を通じて秀吉に許され、姓を佐久間に戻して蒲生氏郷に仕えました。出羽の小国(今の山形県小国町)を領して葛西・大崎一揆の鎮圧で手柄を立て、氏郷の死後は秀吉の直臣となって信濃の槇島城を与えられています。秀吉が亡くなった慶長三年(1598年)、近江の小河(今の東近江市)で七千石を与えられたのが、近江との縁の始まりでした。
高島の領地と藩の終わり
関ヶ原の戦いのあとに加えられた八千石は、近江国高嶋郡(今の滋賀県高島市)のうちでした。慶長十二年(1607年)に常陸国小田(今の茨城県つくば市小田)で五千石が加わって二万石となり、大坂の陣の手柄で信濃飯山へ移って三万石となります(飯山への移封は元和元年(1615年)とも、元和二年(1616年)ともされます)。近江高島藩として独立していたのは、およそ十六年間でした。
飯山に移ったあとも高島の領地は飯山藩の飛び地として残り、安政は元和三年(1617年)に二代将軍徳川秀忠の御伽衆となりました。寛永四年(1627年)に江戸で亡くなり、菩提寺は高島市の幡岳寺と飯山市の大聖寺です。跡は子の安長、さらに孫の安次が継ぎましたが、寛永十五年(1638年)に安次が幼くして亡くなり、跡継ぎがいないため佐久間家は断絶しました。高島の飛び地もここで幕府領になっています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、立藩した時の一万五千石ならおよそ三百五十人、慶長十二年以降の二万石ならおよそ四百七十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また近江高島藩は慶安より前に消えているため、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。
参考:Wikipedia「近江高島藩」「佐久間安政」「飯山藩」

