藩の歩み
彦根新田藩は江戸時代中期の正徳四年(1714年)より享保十九年(1734年)まで存した藩です。井伊直興の14男「井伊直定」が一万石を分与され立藩されました。享保十七年(1732年)、直定は奏者番に就任したが享保十九年(1734年)、兄で8代藩主「井伊直惟」の養嗣子となったため彦根新田藩は廃藩となりました。
本家・彦根藩との関係
彦根新田藩は、近江の彦根藩から分かれた支藩で、本藩の石高の内から分知された内分の大名でした。譜代大名筆頭・井伊家の分家にあたります。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主の井伊直定が本家・彦根藩の家督を継いだことにともない、彦根新田藩は本藩へ還って廃藩となりました(江戸時代なかば)。幕末の本家・彦根藩は、大老・井伊直弼を出した譜代の名門であり、桜田門外の変で直弼を失ったのち、やがて新政府方へと転じています。分家はそれ以前に役目を終えていました。
二十年で本家に還った一万石
彦根新田藩は、彦根藩四代藩主である井伊直興の十四男・井伊直定に一万石が分けられて成立した支藩です。立藩の年は正徳三年(1713年)とする資料と正徳四年(1714年)とする資料があり、分かれています。本藩の領内から知行を分ける内分の支藩で、陣屋がどこに置かれたのか、あるいは定府だったのかは、はっきりしません。
享保十九年(1734年)、直定は異母兄で彦根藩主の井伊直惟の求めに応じてその養子となり、新田藩の一万石は本家へ還されて廃藩となりました。存続はおよそ二十年、彦根の城下に独自の痕跡を残さないまま消えた支藩でした。
井伊直定という人
井伊直定は元禄十五年(1702年)に彦根で生まれ、宝暦十年(1760年)に亡くなりました。享保十七年(1732年)に奏者番となり、享保二十年(1735年)、直惟の隠居にともなって彦根藩主を継ぎます。
質素倹約を旨とした人物として伝えられています。奏者番として率先して規律を守り、江戸城中でも握り飯の弁当を持参したこと、同僚を密告するような振る舞いを卑しんだことが語り継がれてきました。宝暦四年(1754年)に養子の直禔へ家督を譲りますが、直禔が急逝したため同年八月に病身を押して再び藩主を勤めています。彦根藩主を二度務めた、珍しい経歴の持ち主でした。
幕末の彦根藩に支藩はなかった
文久二年(1862年)、彦根藩は井伊直弼の罪を問われて十万石を減らされ、三十万石から二十万石となりました。預かり地の五万石も没収されています。元治元年(1864年)には禁門の変での働きにより旧領のうち三万石を回復し、二十三万石となりました。
ただし彦根新田藩はこの百三十年近く前にすでに廃されており、幕末の彦根藩に支藩は存在しません。減封の際に新田分や支藩がどうなったのかという問いは、そもそも生じなかったことになります。
彦根に残るもの
彦根城下を見おろす高台に建つ天寧寺には、十一代藩主の井伊直中が供養のために京の名工へ彫らせた木造の五百羅漢が伝わります。直弼ゆかりの寺でもあり、境内には釈迦と十六羅漢を石で表した庭があります。
尾末町には井伊直弼の歌碑が立ちます。昭和三十五年、大老開国百年祭に先がけて市内の有志が建てたもので、「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」の歌が刻まれています。安政七年正月に直弼自身が詠み、井伊家の菩提寺である清凉寺に納めた歌です。金亀町の楽々園の前には、直弼が文化十二年にこの地で生まれたことを記す生誕地の碑も建っています。
藩祖の父・井伊直興—大老と玄宮楽々園
彦根新田藩の藩祖・井伊直定の父は、彦根藩四代藩主の井伊直興です。直興は元禄十年(1697)に大老となり、のちに一度退いたあと正徳元年(1711)に再び大老を務めました。元禄年間には日光東照宮の大規模な修理の総奉行も任されています。
彦根城の北東にある藩主の下屋敷「槻御殿」と、その庭園「玄宮園」を整えたのもこの直興です。御殿の一部は「楽々園」として残り、玄宮園とあわせて国の名勝に指定されています。直定は、この彦根の城下で生まれ育ちました。
井伊家の分家のゆくえ
井伊家には、幕末まで続いた分家もありました。藩祖・井伊直政の長男・直勝の家系で、上野安中・三河西尾・遠江掛川などを経て越後与板の二万石の藩主となった家です。直政の跡を継いだのは次男の直孝の家(彦根藩)で、病弱とされた長男の家は別の道を歩みました。彦根新田藩は二十年で本家に吸収されましたが、与板の井伊家は戊辰戦争で新政府側について北越戦争を戦っています。
なお、井伊家が近江で最初に本拠としたのは石田三成の旧城・佐和山で、彦根城はその後に築かれた城です。
握り飯の弁当と、二度藩主になった直定
倹約の殿様
井伊直定は元禄15年(1702)に彦根で生まれ、正徳3年(1713)に従五位下・因幡守となりました。倹約家で、江戸城にも握り飯の弁当を持って行ったという逸話が伝わります。望遠鏡で酔った家臣を見つけたとき、同僚の名を告げた家臣をかえって嫌ったという話もあります。
二度の藩主就任
直定は宝暦4年(1754)、病弱のため甥の直禔を養子にして隠居しましたが、直禔は彦根へ向かう途中で急死しました。他家からの養子は幕府の許可が出なかったため、同年8月に直定が本藩の藩主に戻っています。翌年、直禔の弟・直幸を養子にして再び隠居しました。直幸の子孫からは、のちに井伊直弼が出ます。
清凉寺の墓所
直定は宝暦10年(1760)に59歳で亡くなり、彦根の清凉寺に葬られました。清凉寺・永源寺・豪徳寺の井伊家墓所は、平成20年(2008)にまとめて国の史跡になっています。彦根新田藩は自前の領地を持たない内分の支藩で、陣屋は置かず江戸に住んでいた可能性が高いと考えられます(推測)。
考察:支藩は本藩の「控え」だった
本藩の跡継ぎが急死すると、支藩の当主が呼び戻されて藩主に戻る。彦根新田藩は、井伊家が血筋を絶やさないための「控え」の役割を担っていたと言えます。直弼につながる系譜も、この控えがあってこそでした。



