七尾藩/前田家21万5千石:前田利政 関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易 兄利長に吸収された七尾城

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七尾藩の歩み

「織田信長」や「豊臣秀吉」に仕えていた「前田利家」は加賀藩百万石を築き上げました。利家は長男「前田利長」に家督と加賀の所領を与え、次男「前田利政」に能登七尾二十一万五千石を分与していました。利家の死の翌年、「関ヶ原の戦い」が起こると、利長は東軍(徳川家康)・西軍(石田三成)のどちらが勝利しても家名を存続出来るように利長は東軍につき、利政は西軍に与しました。

七尾藩/場所・アクセス・地図 前田家21万5千石:前田利政 関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易 兄利長に吸収された七尾城【幕末維新写真館】

そして「徳川家康」率いる東軍が勝利すると、利政は西軍に与したために改易され、その旧領は全て利長に与えられました。ここに加賀藩百二十万石が成立しました。利政の子孫は、代々加賀藩に仕えています。

七尾城は天正十七年(1589年)に廃され、拠点は小丸山城に移りましたが、その小丸山城も元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となりました。

幕末の七尾には、加賀藩の海軍がありました

前田利政の改易で七尾は加賀藩領となり、幕末までそのままです。七尾城は天正十七年(1589年)に廃され、小丸山城も元和元年(1615年)の一国一城令で消えました。ですから幕末の七尾を語るなら、城ではなく港のほうです。

嘉永六年(1853年)、ペリーが来た年に、藩主前田斉泰は能登の海岸を自ら巡見しました。翌安政元年には金沢に洋式の軍事学校壮猶館を設け、航海術や測量、医学、数学を教えます。西洋式の軍楽まで教科にあり、日本で最も早い時期の西洋音楽教育とされます。

そして文久二年(1862年)、七尾に軍艦所が置かれました。場所は矢田村と万行村の境の出崎、いまの七尾市矢田新町のあたりです。敷地はおよそ二万坪。桟橋、造船所、製鉄所、機械室、起重機、倉庫、職員と工員の住宅を備え、「蒸気製造所」とも呼ばれました。ここが加賀藩の海軍、通称「梅鉢海軍」の根拠地です。船印は白地に紺の剣梅鉢、前田家の家紋でした。

軍艦のほうは自前で造ったのではありません。文久二年十二月末、横浜で買い入れた鉄製の蒸気船が「発機丸」です。もとの名を「シチー・オブ・バンゴー」といい、安政五年に英国で造られた全長四十八メートルほど、二百五十トン、七十五馬力の船でした。値は六万五千両。加賀藩の年収のおよそ二割にあたります。慶応二年に「錫懐丸」と改められました。

明治二年十二月には、軍艦所のなかに七尾語学所が併設されます。英国人パーシバル・オズボーンが英語と西洋の事情を教えました。わずか一年で閉じましたが、ここで学んだなかに、のちにタカジアスターゼとアドレナリンを世に出す高峰譲吉、日本で最初の理学博士となる桜井錠二、海軍大将となる瓜生外吉がいます。軍艦所も明治四年に閉じました。

七尾城の跡は昭和九年に国の史跡となり、日本五大山城の一つに数えられます。本丸の、低い石垣を五段に積み重ねた造りが見どころで、そこから七尾湾と日本海が一望できます。いまの七尾に残る幕末の跡は、矢田新町に立つ「七尾軍艦所跡」の碑です。

上杉謙信が攻めた七尾城

前田利政が治めた七尾の城は、戦国時代、能登の守護・畠山氏が本拠とした山城です。標高約三百メートルの石動山系の尾根に、本丸から二の丸、三の丸へと曲輪を連ねた大規模な城で、日本の五大山城の一つに数えられることもあります。いまも石垣や曲輪の跡がよく残り、国の史跡に指定されています。

天正五年(1577)、越後の上杉謙信がこの七尾城を囲みました。城内では重臣どうしの争いが起き、内通者が出たことで城は落ちます。このとき謙信が陣中で詠んだとされるのが、「霜は軍営に満ちて秋気清し」で始まる漢詩です(謙信の作かどうかには疑問もあります)。その後、能登は織田信長の手に入り、前田利家が七尾城の主となりました。利家は港に近い小丸山に新しい城を築き始め、のちに加賀の金沢へ本拠を移しています。

西軍についた次男・前田利政

関ヶ原の戦いで、兄・利長が東軍についたのに対し、利政は動きませんでした。妻子が大坂で石田三成方の人質になっていたためとも、豊臣家への恩義からともいわれます。戦後、利政は領地をすべて失いましたが、命は許され、京都の嵯峨で静かに余生を送りました。のちに家康から大名として取り立てる話もあったものの、利政は応じなかったと伝えられます。その子孫は加賀藩の家臣として前田家に仕え、幕末まで続きました。

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藩の成り立ち—利家の能登支配から利政の二十一万五千石へ

前田家の能登支配は、天正九年(1581年)に始まります。織田信長が能登を平定すると、前田利家はまず飯山城、ついで菅原城に入り、同年八月に能登一国を任されて七尾城へ移りました。しかし中世以来の山城である七尾城は国を治めるには不便だったため、翌天正十年(1582年)、七尾湾に近い所口の小丸山に新しい城(小丸山城)を築いて移り、城下町を整えています。天正十一年(1583年)に利家が加賀の尾山城(金沢城)へ移ると、小丸山城には利家の兄・前田安勝が入りました。

利家の次男・利政は、文禄二年(1593年)に従四位下侍従となって能登に封じられ、「能登侍従」と呼ばれました。慶長三年(1598年)に利家が隠居すると、能登一国二十一万五千石が利政に分けられたとされます。翌慶長四年(1599年)に利家が亡くなると、さらに一万五千石を加えられ、二十三万石を領したともいわれます。

藩の終わり—関ヶ原で「出陣しなかった」利政

慶長五年(1600年)、利長・利政の兄弟はいったん東軍として出陣し、北陸で西軍方の大聖寺城を落としました。ところが途中で金沢へ引き返し、再び出陣するとき、利政は大坂で妻子が人質になっていることを理由にその救出を優先すべきだと主張して兄に従わず、七尾にとどまったとされます。これに怒った利長が、戦後に利政が西軍に通じていたと訴え出たとする記録(『天寛日記』)もあります。

こうして利政は所領を取り上げられ、慶長六年(1601年)に旧領はすべて利長に与えられました。利長はこれで加賀・能登・越中の三国と近江の一部、合わせて百十九万二千七百石を領することになります。利政は京都に隠れ住み、寛永十年(1633年)七月十四日、長女の嫁ぎ先である京都の豪商・角倉家の屋敷で五十六歳で亡くなりました。墓は大徳寺の塔頭・芳春院にあります。

藩主家の子孫—加賀八家の筆頭「前田土佐守家」

利政の子・直之は叔父の加賀藩主前田利常に仕え、「前田土佐守家」を立てました。歴代当主のうち四人が土佐守に任じられたことからこう呼ばれます。加賀藩の最上位の重臣である「加賀八家」の筆頭とされましたが、家禄は一万一千石で、八家の中ではもっとも少なかったといいます。

利家の正室まつ(芳春院)の子のうち、兄の利長には男子がなく、加賀藩主の家は異母弟の利常の系統が継ぎました。そのため、まつの血筋を伝えたのは利政の子孫だったことになります。明治になると当主の前田直行が男爵を授けられ、家系は今も続いています。

領地のようす—「七尾」という地名と港町

「七尾」の名は、戦国時代に能登守護の畠山氏が七尾山に城を築き、その麓に城下町が広がったことから、その一帯を指すようになったものです。御祓川の河口の所口には古くからの港(今の七尾港の前身)があり、七尾湾・富山湾の交易の拠点でした。戦国時代の終わりには、府中や所口を含む鹿島郡八田郷全体が「七尾」と呼ばれるようになったとみられています。

加賀藩領となってからは、小丸山城の城下町は商工業の町・港町として栄えました。元禄十五年(1702年)に町の正式な名前は「所口町」とされましたが、「七尾町」との呼び分けはその後も混ざったまま続き、明治八年(1875年)に「七尾町」に改められて落ち着きます。加賀藩はここに所口町奉行を置いて、能登の藩領の管理にあたらせました。明治維新の時期には短い間「七尾県」が置かれ、小丸山に県庁がありました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二十一万五千石のこの藩はおよそ五千五十人が目安です。七尾藩は慶安より前に消えているため、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「七尾藩」「前田利政」「前田土佐守家」

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