玉縄藩/松平家2万5千石:松平正久 上総国大多喜藩へ転封のため廃藩

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玉縄藩の歩み

玉縄城は小田原北条氏の支城であったが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の「小田原征伐」で落城します。

玉縄藩/場所・アクセス・地図松平家2万5千石:松平正久 上総国大多喜藩へ転封のため廃藩【幕末維新写真館】

「徳川家康」が関東に入封し、家康の参謀「本多正信」の所領となったが、正信は家康の側近中の側近であるにもかかわらず、石高はわずか一万石に過ぎなかったと言われています。

側近中の側近であるゆえに低い恩賞で他勢力から遺恨を買わないように配慮していたと伝わります。

その後は「松平正綱」の領地となるが3代目の「松平正久」のときに、上総国大多喜藩に転封となり玉縄藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の玉縄

玉縄城は小田原北条氏の支城でしたが、一国一城令を受けて元和五年(1619年)に廃城となりました。その後、松平正綱が入って城の南山麓に陣屋を構え、元禄十六年(1703年)に三代正久が上総大多喜藩へ移って廃藩となります。

以後、鎌倉郡はほぼ全域が幕府領となり、韮山代官・江川太郎左衛門の支配所の管轄に入りました。幕末の鎌倉郡はおよそ四町八十五村です。

興味深いのは、寛政四年(1792年)に老中・松平定信が、海岸防備のために玉縄城の再興を計画していたことです。実現はしませんでしたが、江戸前期に消えた城が、外圧の時代にもう一度候補に挙がっていたわけです。

幕末の鎌倉で起きた事件といえば鎌倉事件でしょう。元治元年(1864年)、鶴岡八幡宮へ続く松並木で、横浜に駐屯していたイギリス陸軍のボールドウィン少佐とバード中尉が斬られ、少佐は即死しました。犯人は翌年に捕らえられ、横浜戸部の刑場で公開処刑されています。幕末の外国人殺傷事件で、犯人が処罰された最初の例でした。

玉縄城の主郭跡と諏訪壇は、現在は清泉女学院中学高等学校の敷地内にあります。見学には事前の申請と学校の許可が必要です。周辺に土塁や堀切の跡が散在しますが、宅地化で大部分は失われました。

玉縄の陣屋の主・松平正綱と「知恵伊豆」

玉縄城の麓に陣屋を構えた松平正綱(大河内松平家)は、家康・秀忠・家光の三代に仕えて幕府の財政を預かった人物です。家康の死後は日光東照宮の造営にかかわり、二十年あまりをかけて日光街道などに杉の苗木を植えて寄進しました。いまに残る日光杉並木は、この正綱の寄進によるものです。

正綱は、甥にあたる長沢松平家の信綱を養子に迎えていました。のちに老中となり、島原の乱を鎮め、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱です。正綱にのちに実子が生まれたため、信綱は独立して自分の家を立て、川越藩主となりました。玉縄の小さな陣屋の主の家から、江戸初期を代表する老中が巣立ったことになります。

玉縄を去った大河内松平家の幕末

元禄十六年(1703)、三代の正久は上総の大多喜藩へ移され、この家は明治まで大多喜藩主として続きました。幕末の藩主・松平正質(まさただ)は老中格を務め、慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍の総督として大坂から京へ向かう軍を率いています。敗戦後、正質は新政府から官位を奪われ、大多喜城は新政府軍に明け渡されました。

玉縄で日光杉並木の正綱を出した家が、百六十年あまり後には、戊辰戦争の最初の戦いで旧幕府軍を率いる側に立っていたのです。

同じころの日本—福島正則の改易

広島城の無断修築 松平正綱が玉縄に入った元和五年(1619)、豊臣恩顧の大大名・福島正則が、広島城を幕府に無断で修築したとして、安芸・備後五十万石を取り上げられました。正則は信濃の川中島へ移され、わずかな領地を与えられるだけとなります。

武家諸法度の重み 元和元年(1615)に出された武家諸法度は、大名が城を勝手に修築することを禁じていました。関ヶ原で徳川方の勝利に大きく貢献した正則でさえ、この掟に背けば容赦なく処分されたのです。家康の側近として幕府の財政を支えた松平正綱は、こうした幕府の力が固まっていく時代の中心にいた人物でした。

玉縄藩をもっと詳しく

藩の成り立ち

天正十八年(1590年)に徳川家康が関東へ移ると、玉縄は本多正信に与えられました。石高は一万石とされますが、二万二千石とする説もあります。

その後に玉縄を治めた松平正綱は、寛永二年(1625年)に加増されて二万二千百石余となり、「甘縄(玉縄)城主」と記されています。ただし近年、元和三年(1617年)に三河国で出された年貢の割付状が見つかり、正綱の領地がいつ、どこにあったのかは見直しが必要だとされています。

藩主家の歩み

正綱は天正四年(1576年)、徳川家の家臣・大河内秀綱の次男として生まれました。天正十五年(1587年)、家康の命で長沢松平家の分家・松平正次の養子となって松平の姓を名乗り、この家は「大河内松平家」の本家(宗家)とされます。駿府では家康のそば近くに仕える「出頭人」となり、慶長十四年(1609年)には幕府の会計をまとめる役を命じられました。家康が亡くなったときは久能山への埋葬と日光への改葬に付き従っています。慶安元年(1648年)に亡くなりました。

正綱の長男・利綱が早くに亡くなったため、二代目は次男の正信が継ぎました。正信は弟の季綱に三千石を分け与えています。万治二年(1659年)から貞享三年(1686年)まで、大名が将軍に会うときの取り次ぎ役である奏者番を務め、鎌倉の鶴岡八幡宮の修理の奉行も務めました。領地のすぐそばにある鶴岡八幡宮にかかわったわけです。三代目の正久のときに上総国大多喜(いまの千葉県夷隅郡大多喜町)へ二万石で移され、玉縄藩はなくなりました。

先祖の家・大河内氏

大河内氏は、平安時代末に平家と戦った源頼政の子孫と伝わる一族で、三河国で徳川家(松平家)に仕えていました。正綱の兄・大河内久綱の長男が、のちに老中となる松平信綱です。

藩主家の子孫・明治以降

大多喜藩主となった大河内松平家は、幕末の藩主・松平正質が鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を率いたため、いったん官位と領地を取り上げられ、佐倉藩に預けられました。しかし近くの請西藩などが新政府に抵抗したときに誘いに乗らなかったことなどが認められ、慶応四年(1868年)八月に許されて領地を戻されています。明治二年(1869年)の版籍奉還で正質は大多喜藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で大多喜県、木更津県を経て千葉県に入りました。華族制度ができると、この家は子爵となりました。

領地のようす

玉縄城と陣屋があったのは、いまの神奈川県鎌倉市の玉縄・城廻あたりです。城廻村は元禄年間(1688〜1704年)に分かれてできた村で、「城のまわりにあるので城廻村とした」と伝わります。この村の領主は、はじめ幕府領、次に玉縄藩領、その後は旗本領と幕府領が入りまじる形へと移り変わりました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万二千石のこの藩はおよそ五百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「玉縄藩」「松平正綱」「松平正信」「大多喜藩」、コトバンク「松平正綱」「城廻村」

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