船形藩の歩み
元治元年(1864年)10月、「平岡道弘」は加増を受けて一万石の大名に列し「船形藩」が立藩されました。翌、慶応元年(1865年)には船形村で陣屋建設を開始しています。
明治元年(1868年)2月、道弘は江戸城を退去する「徳川慶喜」に随身しました。7月には領地を安房上総監察兼知県事「柴山文平」へと引き渡し「版籍奉還」に先立って自ら廃藩となりました。その後道弘は徳川将軍家に従い、静岡藩大参事(家老)となっています。
この藩は幕末そのものです
船形藩は元治元年(1864年)十月に立藩し、慶応四年(1868年)七月に消えました。存続はわずか四年です。幕末という時代とほぼ同じ長さしかありません。
藩主の平岡道弘は、旗本から将軍の側近へ上がった人物でした。嘉永二年(1849年)に御側御用取次となり、十二代家慶・十三代家定に仕えます。南紀派に属し、井伊直弼の大老就任を後押ししました。文久二年(1862年)八月には若年寄となって五千石。一橋派の巻き返しで南紀派が処罰されていく時期に、道弘はむしろ昇進しています。そして元治元年十月、一万石に加増されて大名の列に入り、安房船形に藩を立てました。翌慶応元年(1865年)から船形村で陣屋の建設が始まります。北東を山が囲み、南に鏡ヶ浦が広がる土地でした。
ところが慶応三年(1867年)五月に京都見廻役を命じられ、六月には若年寄を辞します。そして慶応四年二月十二日、江戸城を出る徳川慶喜に随行しました。領地に戻る道を選ばなかったのです。
同年七月、道弘は領地を返上します。版籍奉還より一年早い、自分からの廃藩でした。翌明治二年(1869年)には静岡藩の大参事、つまり家老になっています。新政府の大名として安房に残るより、徳川家の家臣として静岡へ従うことを選んだ、ということだと思います。
その安房も静かではありませんでした。慶応四年閏四月、請西藩主・林忠崇が脱藩して挙兵し、遊撃隊とともに安房を通過します。館山藩は林軍に武装包囲されたうえ榎本艦隊から威嚇砲撃を受け、援兵十四名を差し出しました。船形は館山のすぐ北にあたります。
陣屋跡は現在の船形漁港に接する民有地で、石垣と堀の一部が残っているとされます。
京都見廻役という仕事
平岡道弘が慶応三年(1867)五月に命じられた京都見廻役は、幕臣の子弟で組織された京都見廻組を率いる役職です。見廻組は、会津藩預かりの浪士集団だった新選組と並んで、京都の治安を守る幕府側の組織でした。新選組が浪士の寄せ集めだったのに対し、見廻組は旗本・御家人で固められた、いわば幕府直属の警察部隊です。同じ年の十一月、坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で襲われた事件は、この見廻組の手によるものとする説が有力になっています。
京都見廻役は、元治元年(1864)に設けられたときから大名や大身の旗本が任じられ、備中の浅尾藩主・蒔田広孝もその一人でした(雲出藩の項を参照)。将軍の側近として出世してきた道弘が、幕府の最後の年に京都の治安の責任者の一人となり、翌年には江戸城を出る慶喜に従ったことになります。
徳川家の家臣として静岡へ
藩を返上した道弘は、明治二年(1869)に静岡藩の大参事となりました。大参事は藩知事を補佐する藩の最高職の一つで、旧幕府の家臣団を抱えて駿河に移った徳川家にとっては、家老にあたる役目です。一万石の大名として新政府のもとに残る道もありながら、主家に従って静岡へ移る道を選んだ旗本出身の大名は、多くはありませんでした。
同じころの京都—京都見廻組の結成
見廻組と新選組 京都見廻役が置かれた元治元年(1864)、幕府は京都の治安を守るため、旗本や御家人の子弟からなる「京都見廻組」をつくりました。浪士から生まれた新選組に対し、見廻組は幕臣で構成された組織で、御所の周りや二条城の近くなど、主に京都の中心部を受け持ちました。
龍馬を斬った組 見廻組を率いた一人の佐々木只三郎は、慶応三年(1867)十一月、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を襲った一団の中心にいたとされます。京都見廻役は、こうした京都の治安組織を取りまとめる幕府の役職でした。
版籍奉還の前に自ら藩を返した殿様—平岡道弘と船形
五百石から一万石へ
船形藩主・平岡道弘は、甲斐国府中の生まれで、実父は大番の旗本・藤沢次和です。文政三年(1820年)に西丸小納戸頭・平岡道忠(五百石)の養子となりました。将軍の側近である御側御用取次として家慶・家定・家茂に仕え、石高は嘉永二年(1849年)の二千石から、四千石、五千石と増え、元治元年(1864年)に一万石の大名になりました。家格は譜代です。平岡家は甲斐武田家に仕えた家で、初代が家康に仕えたとされます。
船形村御霊の陣屋
陣屋は安房国平郡船形村御霊(いまの館山市船形)に置かれました。表門は西側の街道に、裏門は東側に面し、東南側には幅約六メートルの堀が掘られていましたが、完成しないまま荒れたといいます。大正のころまで裏門と牢屋が残っていたとされます。旧高旧領取調帳には六千三百八十九石分しか載っておらず、一万石のうち残りの領地ははっきりしません。
自ら藩を返す
道弘は、版籍奉還に先立って自分から藩を返上しました。幕府の側近として最後まで仕えた人が、徳川家の静岡移住にあわせて藩を手放したのです。明治二年(1869年)には静岡藩の大参事となりました。自ら藩を返上したため、華族にはなりませんでした。幕末の大名一覧に船形藩の名がほとんど見えないのは、そのためかもしれません。
崖観音と漁師の町
船形は漁師の町です。船形山の中腹の大福寺(崖観音)は、行基が漁師の海上安全と大漁を祈って岩に観音を彫ったのが始まりと伝わります(館山市船形、JR那古船形駅から徒歩約十五分)。将軍の側近から大名になり、わずか数年で藩を返して主家とともに駿府へ移る。船形藩は、最後まで「徳川家の臣」であることを選んだ殿様の藩でした。



