大坂藩/松平家10万石:松平忠明 大和郡山藩へ移封のため廃藩

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大坂藩の歩み

大坂城は、天正十一年(1583年)に豊臣秀吉が築いて以来、天下統一と豊臣政権の中心でした。しかし慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、実権は徳川家康の手に移り、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の六十五万七千石を治める一大名の地位に置かれます。この時期の豊臣家を一つの大名家とみるなら、これを「大坂藩」と呼ぶこともできます。

大坂藩/場所・アクセス・地図 松平家10万石:松平忠明 大和郡山藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

慶長二十年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びると、伊勢亀山藩から松平忠明が十万石で大坂に入り、大坂藩が成立しました。忠明は家康の外孫で、家康の養子にもなっていた人物です。忠明は戦で荒れた大坂の町の立て直しに取り組みましたが、元和五年(1619年)に大和郡山藩へ移り、大坂藩はわずか四年で廃されました。

大坂藩/場所・アクセス・地図 松平家10万石:松平忠明 大和郡山藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

その後の大坂は幕府の直轄地となり、大坂城代と大坂町奉行が置かれました。幕末には将軍家茂や慶喜が一時大坂城に入りましたが、ここが徳川家の本拠となることはなく、廃藩置県まで、大坂に藩が置かれることはありませんでした。

鳥羽伏見の戦いでは将軍「徳川慶喜」以下、旧幕府軍の前線基地となったが、この一戦に敗れると大坂籠城を決意していた旧幕府軍の諸将を置き去りにして慶喜は老中や松平容保・松平定敬らわずかな側近とともに江戸へ帰還してしまいました。

大坂藩/場所・アクセス・地図 松平家10万石:松平忠明 大和郡山藩へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

これに伴い、旧幕府軍もおもいおもいに江戸や自領を目指して撤退していきました。ほどなく、大坂城は新政府軍に接収され新政府側の諸藩による守備隊が配置されました。名城大坂城は幕末期においても戦うことなく終焉を迎えています。

【廃藩のあと—幕末の大坂】城代の町と、慶応四年正月の火

大坂の藩は元和五年(1619年)に松平忠明が大和郡山へ移って以来置かれていません。以後の大坂は幕府の直轄地で、大坂城代と大坂町奉行が置かれた町でした。

大坂城代という役

大坂城代は元和五年に創設され、初代は伏見城代から移った内藤信正です。定員は一名。大坂城の守護、城下と畿内の治安、そして西国の大名の動きを見張ることが職務でした。役知は一万石で、奏者番や寺社奉行から転じ、ここから京都所司代、さらに老中へ進むという昇進の道筋が定まっていました。幕府の要職のなかでも、西国をにらむ位置にある役です。

幕末の城代は、松平信篤、松平宗秀、松平信古と替わり、元治元年(1864年)十一月に牧野貞明が就いて、この人が最後の大坂城代となりました。城代の下には京橋口と玉造口の定番が置かれ、加番が城中を警衛していました。

天守はすでになかった

ここで一つ、誤解の多い点を押さえておきます。幕末の大坂城に天守はありません。寛文五年(1665年)正月、天守北側の鯱に落雷して焼失し、以後再建されませんでした。つまり慶喜が入った大坂城も、天守のない城だったのです。

慶応四年(1868年)正月六日の夜、慶喜は大坂城を出ました。老中の板倉勝静・酒井忠惇、会津の松平容保、桑名の松平定敬らを連れて開陽丸で江戸へ向かい、正月十二日に到着します。艦長の榎本武揚には退却を告げず、戦地に置いたままでした。

将軍が去ったことを知らされていない城内は混乱し、正月九日に本丸御殿の台所から火が出ます。本丸御殿、二百年以上残ってきた本丸の三重櫓十一基、桜門などが焼けました。大坂の大店の日記には、正月七日以降は毎日城内で火事があり、正月十日には火薬庫が大爆発したと記されています。なお京橋口多聞櫓や二番櫓・三番櫓などが失われたのは昭和二十年(1945年)の空襲で、慶応四年の火事とは別の話です。

蔵屋敷と米市場の町

大坂が幕府にとって重い土地だったのは、ここが日本の経済の要だったからです。中之島の周りには諸藩の蔵屋敷が並び、天保のころには百二十軒ほどありました。年貢米や国産物を売る出先の役所で、船着場と蔵と役所をそろえた大がかりなものもありました。堂島の米市場は享保十五年(1730年)に幕府が公認し、ここで付いた値段が全国の米価の標準になりました。世界の先物取引の先駆けとされる市場です。

その町で天保八年(1837年)二月、大塩平八郎の乱が起きます。天保の飢饉のさなか、町奉行が救済を行わず新将軍の就任の儀式のために江戸へ米を回した—そこに大塩が決起しました。総勢三百人ほどになりましたが半日で鎮圧され、それでも市中の五分の一が焼け、七万人が焼け出されたと伝わります。

いま残る大坂城

現在の大阪城には重要文化財の建物が十三棟あります。大手門、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、焔硝蔵、六番櫓、一番櫓、桜門、金蔵、金明水井戸屋形と塀です。多くは昭和二十八年(1953年)六月十三日の指定です。千貫櫓と乾櫓は元和六年(1620年)の建築で城内でも古く、大手門と多聞櫓は嘉永元年(1848年)の再建とされます。つまり幕末の大坂城を実際に見ている建物が、いまも数棟立っているわけです。天守閣は昭和六年(1931年)に市民の寄付で建てられたもので、大阪市の有形文化財になっています。

大坂藩をもっと詳しく

藩主・松平忠明の生まれ

大坂藩のただ一人の藩主・松平忠明は、天正11年(1583年)に奥平信昌の四男として三河国新城で生まれました。母は徳川家康の長女・亀姫で、忠明は家康の外孫にあたります。天正16年(1588年)、6歳で兄の家治とともに家康の養子となり、松平の姓を許されました。忠明は「奥平松平家」の祖とされます。父の奥平信昌は、長篠の戦いで活躍した武将です。

忠明は文禄元年(1592年)に兄・家治の遺領である上野国長根7000石を継ぎ、慶長4年(1599年)に叔父の徳川秀忠から一字をもらって「忠明」と名乗りました。関ヶ原の戦いには父とともに出陣し、慶長7年(1602年)に三河国作手で1万7000石、慶長15年(1610年)には伊勢国亀山5万石の大名となります。

大坂の陣での働き

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、美濃の諸大名を率いるはずだった兄・奥平忠政が急死したため、忠明が代わって美濃の諸将を率い、河内口方面の大将となりました。冬の陣の和議の後には、家康の命で大坂城の外堀・内堀を埋め立てる奉行を務めています。翌年の夏の陣では大和路勢の三番組の大将として、道明寺・誉田の戦いや天王寺・岡山の戦いに加わりました。忠明の戦功そのものは特に目立つものではなく、大坂藩10万石を与えられたのは、冬の陣の後の埋め立ての働きが評価されたためとみられています。

大坂の町づくり

忠明の大坂時代の事績とされるものには、秀吉の晩年に造られた大坂城三の丸を取り払って市街地として開いたこと、京都伏見の町人を大坂に移り住ませたこと、京町堀川・江戸堀川・道頓堀川の開削、寺院と墓地の移転、町割りの施行などがあります。戦いで中断していた運河の開削が有志によって再開されて完成すると、忠明はこれを賞し、その運河を「道頓堀」と名づけたといわれます。

こうした計画には、実際には忠明が去った後の幕府直轄の時代に行われたものも多いとされます。それでも、その準備を含めて、忠明は大坂の都市計画の歴史に大きな足跡を残しました。この後も堀川の開削が続き、寛永期(1624〜1644年)には天満組・北組・南組からなる「大坂三郷」が成立しています。

藩の終わり

復興の手腕を高く評価された忠明は、元和5年(1619年)に大和国郡山12万石へ加増のうえ移されました。大坂は幕府の直轄地となり、翌元和6年(1620年)からは、諸大名を動員する「天下普請」で大坂城の再築が始まります。工事は寛永5年(1628年)ごろに完成し、秀吉の大坂城のおよそ2倍の規模をめざした大がかりなものでした。

忠明はその後、寛永9年(1632年)に秀忠の遺言で井伊直孝とともに家光の後見役(大政参与)となり、寛永16年(1639年)には播磨国姫路18万石に移されました。寛永21年(1644年)に江戸の藩邸で62歳で亡くなっています。忠明が大坂の陣で帯びたと伝わる刀「来国光」は、国宝として九州国立博物館に所蔵されています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、10万石のこの藩はおよそ二千三百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また大坂藩は慶安より前に消えた藩なので、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。

参考:Wikipedia「松平忠明」

場所・アクセス・地図

大坂の現地を歩いた記録

大坂藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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