高瀬藩(熊本藩支藩)/細川家3万5千石:細川利永 幕府に従順だったが無事に幕末を乗り切った高瀬藩

高瀬藩(熊本藩支藩) 細川家3万5千石 最後の藩主 細川利永
目次

藩の歩み

肥後新田藩は熊本藩の支藩で、寛文六年(1666年)熊本藩3代藩主「細川綱利」の弟「細川利重」が熊本藩の蔵米より三万五千石を分与され立藩しました。江戸鉄砲洲に住み参勤交代を行わない定府大名でした。

元治元年(1864年)四月、神田橋御門番の警備を、慶応元年(1865年)七月には佃島砲台警備などを務めました。慶応四年(1868年)に藩庁を高瀬町奉行所に移設し、これにより高瀬藩と改称しました。明治二年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めました。

明治三年(1870年)玉名郡岩崎村(玉名市)に正式な陣屋が完成しそこに移りました。しかし、同年には熊本藩に合併し廃藩となりました。

本家・熊本藩との関係

高瀬藩は、肥後の熊本藩(肥後藩・細川家)の支藩です。細川家の分家が三万五千石を領しました。

幕末の高瀬藩は幕府に従順な立場をとりましたが、大きな戦火に巻き込まれることなく無事に維新を乗り切りました。戊辰戦争では、同じ細川一門の宇土藩とともに本家・熊本藩に従っています。最後の藩主は細川利永です。大藩・熊本を支えた細川一門の支藩でした。

江戸から肥後へ—幕末に生まれた城下町

高瀬藩は寛文六年(1666年)に熊本藩細川家から蔵米三万五千石を分けられて成立した支藩で、江戸時代の名は肥後新田藩でした。宇土藩とならぶ熊本藩の分家ですが、性格はまるで違います。宇土は宇土郡などに領地を与えられて現地に陣屋を構えた藩ですが、こちらは領地を持たず、本家からの蔵米で暮らし、参勤交代もせずに江戸の鉄砲洲に住み続けた藩でした。

慶応四年三月、藩をあげて下向する

その暮らしが終わったのは慶応四年(1868年)です。同年三月四日、十代藩主の細川利永以下、藩をあげて江戸を離れ、肥後の高瀬へ下りました。藩主と家族は高瀬御茶屋に入り、家臣たちは商家や寺院に分かれて住みました。仮の藩庁は高瀬町奉行所に置かれ、同年七月二十五日に藩名を「高瀬」と改めています。二百年にわたって江戸で暮らしてきた藩士たちが、菊池川の舟運の町へ移り住んだわけです。

正式な藩邸は、玉名郡岩崎村の岩崎原という台地の十町歩に建てられました。明治二年(1869年)五月の着工で、家臣団の屋敷が完成したのは明治三年(1870年)五月二十六日です。ところがその四か月後、明治三年九月四日に藩は熊本藩へ合併されて廃藩となります。幕末にできた新しい城下町が、完成した年のうちに役目を終えたことになります。跡地の小学校のあたりには「旧高瀬藩邸址百年記念碑」が建っています。

菊池川の米と、藩の名

高瀬という土地が選ばれたのは、ここが菊池川の舟運の要港だったからです。熊本藩は早くからこの川筋を年貢米の輸送路として使っており、高瀬には米蔵と船着場が置かれていました。この一帯の遺構は「熊本藩高瀬米蔵跡」として令和四年(2022年)に国の史跡に指定されています。御蔵跡には礎石の列、船着場跡には石垣や俵ころがしが残ります。ただしこれは熊本藩の年貢米の施設で、高瀬藩そのものの遺構ではありません。混同しやすいところです。

細川利永は文政十二年(1829年)に生まれ、嘉永六年(1853年)に従兄の養子となり、安政三年(1856年)に家督を継ぎました。明治二年には宇土藩とともに京都の大原口の警護を務めています。廃藩後は東京に住み、明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ、明治三十四年(1901年)に亡くなりました。

藩祖の兄・細川綱利と赤穂浪士

肥後新田藩(高瀬藩)の藩祖・細川利重は、熊本藩三代藩主・細川綱利の弟です。この綱利の時代、元禄十五年(1702年)十二月の赤穂浪士の討ち入りのあと、幕府は浪士四十六人を四つの大名家に分けて預けました。そのうち大石内蔵助ら十七人を預かったのが、江戸・白金の下屋敷にいた細川家です。細川家は浪士たちを手厚くもてなしたと伝えられ、翌年二月、浪士たちはこの屋敷で切腹しました。屋敷の跡はいまの東京都港区高輪にあり、「大石良雄等自刃ノ跡」として残っています。

江戸の鉄砲洲に住んでいた新田藩の当主たちにとって、本家のこの出来事は同じ江戸の町で起きた身近な話だったはずです。

細川家の先祖—幽斎・忠興・ガラシャ

細川家の家祖は、室町幕府の将軍に仕え、のちに信長・秀吉・家康に仕えた細川藤孝(幽斎)です。和歌の古今伝授を受けた当代一流の文化人でもありました。その子の忠興は妻に明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を迎え、関ヶ原の戦いの前に大坂の屋敷でガラシャが命を落としたことはよく知られています。忠興は関ヶ原で東軍につき、のちに子の忠利が肥後五十四万石に移って熊本藩の礎を築きました。高瀬藩は、その忠利の孫にあたる利重から始まる家で、同じ細川一門の宇土藩とともに本家を支えました。

鉄砲洲の上屋敷から岩崎原の陣屋へ

綱利の願いによる分知

藩祖の細川利重は熊本藩2代藩主・細川光尚の次男で、分知は兄の綱利の願いによって寛文6年(1666年)7月に行われました。家格は外様です。歴代藩主は利重・利昌・利恭・利寛・利致・利庸・利国・利愛・利用・利永の10代とされます。

江戸の屋敷

江戸の上屋敷は鉄砲洲、下屋敷は本所中ノ郷にありました。藩主は江戸に住んでいましたが、鳥羽・伏見の戦いの後、本藩の勧めもあって江戸を引き払ったといいます。最後の藩主・利永は8代利愛の三男です。

高瀬の陣屋と自明堂

高瀬に移った後、岩崎原の陣屋の周りを区画し、家臣団297戸・約700人を格式ごとに住まわせました。藩校「自明堂」も設けています。版籍奉還のとき藩としては認められたものの、知藩事は任命されないまま本藩に合併されたとされます。

考察:最後の数年で生まれた陣屋町

200年近く江戸で暮らした家臣たちが、幕末に初めて肥後の地に町をつくった。わずか数年で終わった陣屋町でしたが、江戸から地方へ移った人々の暮らしの記録として貴重だと思います。

高瀬藩をもっと詳しく

本家に藩主を送り出した分家

肥後新田藩は、本家の熊本藩に藩主を送り出したことのある分家です。藩祖・細川利重の次男の利武は、元禄10年(1697年)に本家から5,000石を分けられていましたが、熊本藩3代藩主・細川綱利の嫡男の吉利が若くして亡くなったため、伯父にあたる綱利の養子に迎えられました。正徳2年(1712年)に家督を継いで熊本藩4代藩主となり、将軍・徳川家宣から一字を受けて細川宣紀と名乗ります。

宣紀の治世は、旱魃や洪水、イナゴの大発生などの天災が続き、享保17年(1732年)には凶作で多くの餓死者が出たといわれる苦しい時代でした。その宣紀の子のうち、四男の宗孝が5代藩主、その弟の重賢が6代藩主となります。重賢は「肥後の鳳凰」と称えられた名君で、傾いた藩政の立て直しを進めた人物です。名君の血筋をさかのぼると、江戸の新田藩邸から本家に入った宣紀に行き着くわけです。同じ細川一門の宇土藩からも、のちに細川斉茲が本家を継いでおり、二つの分家は本家の跡継ぎを支える役目も担っていました。

戸越の屋敷と品川用水

藩祖の利重は、江戸郊外の戸越のあたりに領地と抱屋敷(下屋敷)を持っていました。屋敷の庭の池に水を引くため、利重は玉川上水から屋敷まで長い水路を掘らせています。これが戸越上水です。細川家による水路の管理は数年でやめになりましたが、品川の人々の願い出によって民間の管理で残され、流れを延ばして品川用水となりました。大名屋敷の庭のための水路が、のちに品川一帯の暮らしや田畑をうるおす用水に変わったことになります。

戸越の屋敷地は寛文年間に細川家の下屋敷となり、回遊式庭園が整えられました。その後持ち主は何度も変わり、明治23年(1890年)に三井家の所有となります。昭和7年(1932年)に庭園部分が当時の荏原町に寄付され、昭和10年(1935年)に戸越公園として開園しました。いまの品川区豊町にある戸越公園は、江戸の大名庭園の面影を残す公園として親しまれています。

江戸の藩校・成章館

6代藩主の細川利庸は4代藩主・利寛の四男で、天明元年(1781年)に兄の5代藩主・利致が亡くなったため跡を継ぎました。寛政3年(1791年)には藩校の成章館を創設しています。参勤交代をせず江戸に住み続けた藩でも、家臣の子弟の教育に力を入れていたことがうかがえます。高瀬に移ったあとには、新しい陣屋町に自明堂が設けられました。

跡継ぎに苦労した幕末の当主たち

9代藩主の細川利用は7代利国の長男でしたが、父が亡くなったときはまだ幼く、生母が側室だったこともあって、すぐには跡を継げませんでした。叔父の8代利愛の養子となり、天保4年(1833年)に家督を継ぎます。ところが自分の男子の多くが早世し、残った三男の利祐もまだ幼かったため、従弟にあたる利愛の三男・利永を養子とし、安政3年(1856年)に家を譲りました。

最後の藩主となった利永も、跡継ぎには恵まれませんでした。明治22年(1889年)、公家の園基祥の次男・利文が利永の長女・同子と結婚して婿養子となり、明治34年(1901年)に利永が亡くなると子爵を継ぎました。利文は学習院や東京専門学校で学んだのち宮内省に勤め、御歌所参候として和歌の道でも活躍しています。昭和19年(1944年)に亡くなり、爵位は長男の利寿が継ぎました。家祖の細川幽斎が古今伝授を受けた歌人だったことを思うと、その子孫の家から宮中の歌の役目を務める人が出たのは興味深い巡り合わせです。

3万5千石の動員兵力の目安

江戸幕府が慶安2年(1649年)に定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石あたり235人の兵を出すことが目安とされています。これを3万5千石に当てはめると約820人になります。ただし、この規定は案のまま正式には出されなかったという説もあります。また肥後新田藩は領地を持たず本家からの蔵米で暮らす藩だったため、この数字はあくまで石高から見た目安です。幕末に務めた神田橋御門番や佃島砲台の警備は、こうした家臣団によって担われました。

場所・アクセス・地図

〒865-0016 熊本県玉名市岩崎
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