富江藩(福江藩(五島藩)支藩)
藩の歩み
五島氏第23代目当主「五島盛次」の弟「五島盛清(富江五島家初代当主)」が、寛文元年(1661年)、宗家「福江藩」より分与して富江藩が成立しました。そして政庁として富江陣屋が築かれました。石高は三千石で、参勤交代を行う交代寄合として、大名に準じる扱いを受けました。
第6代当主「五島運龍(瑞鳳公)」は、将軍「徳川家斉」の側衆、大番頭役、京都二条城在番、大坂城番、諸国巡見使を歴任しました。第7代当主「五島盛貫」の時代には、実高が1万600余石となりました。慶応四年(1868年)、第8代当主「五島盛明」の代に福江藩に併合されかけたが、この時、富江領民は武装蜂起して激しく抵抗したため、このときは実現しませんでした(明治二〜三年に福江藩へ合併されたとする辞典もあります)。
本家・福江藩(五島藩)との関係
富江藩は、肥前の五島列島にあった福江藩(五島藩)の支藩です。五島家の分家が三千石を領しました。
幕末、富江藩は本藩である福江藩に併合されかけましたが、これに反対する領民の一揆が起こるなど、混乱に見舞われました。最後の藩主は五島盛明です。離島の小さな支藩がたどった、幕末の波乱を伝えます。
三千石なのに「藩」と呼ばれる理由
富江藩の石高は三千石です。大名の基準である一万石にはるかに届きません。それでも藩と呼ばれるのは、富江五島家が表高家・交代寄合という格を得ていたからです。交代寄合とは参勤交代を行う上級の旗本で、大名並みの格式を認められた家柄を指します。
成立は寛文元年(1661年)七月のことでした。福江藩三代の五島盛次の弟である五島盛清が、本藩一万五千五百石余りの五分の一にあたる三千石を分けられ、富江を本拠と定めます。翌寛文二年十一月十五日に富江陣屋が築かれました。なお分知の年については明暦元年(1655年)とする資料もあり、分かれています。以後、富江五島家は八代続いて明治に至りました。
富江騒動—領民が武装蜂起した
この藩の終わり方が、なかなか激しいものでした。
慶応四年(1868年)、本藩の福江藩主・五島盛徳の申し出により、富江の領地を没収して福江藩へ併合し、代わりに蔵米三千石を渡すことが決まります。海防などの出費が増えた福江藩が、収入を増やすために動いたのです。八代の五島盛明の代のことでした。
ところが富江の領民がこれに反発し、武装して蜂起します。富江騒動と呼ばれるこの抵抗は、激しいものだったと伝わります。
明治二年(1869年)、新政府の沙汰で旧領のうち一千石だけが認められますが、実体のないものだったといいます。代わりに北海道寿都の地を与えられましたが、移住は行われませんでした。陣屋は同じ明治二年に廃されています。そして明治四年の廃藩置県で、福江藩もろとも姿を消しました。
富江陣屋の石蔵
富江陣屋の跡は、いまの富江中学校の運動場あたり一帯です。石塁と堀の跡が残ります。
見どころは石蔵です。武道館の裏、富江小学校の前に立つ玄武岩の切石積みの倉で、幅およそ二十五メートル、奥行およそ九メートル。麦や粟を納めた穀物倉でした。築かれて三百五十年以上たったいまも、頑丈そのものの構えで残っています。
この石蔵は指定文化財ではありませんが、埋蔵文化財として保護され、長崎県のまちづくり景観資産に登録されています。県の指定文化財と書かれることがありますが、それは誤りです。
陣屋の大手門は実相寺の山門として移築されて現存します。富江五島家の菩提寺は瑞雲寺で、累代の墓所があります。城址には案内板が立ちます。
溶岩の台地と、富江の町
富江半島は只狩山を中心とする火山から噴き出した、さらさらの溶岩でできた土地です。平坦な大地には円形の畑が数多く残り、その囲いに溶岩が使われています。多郎島のあたりの海岸では、ごつごつしたアア溶岩と、表面のなめらかなパホイホイ溶岩の両方を見ることができます。下五島は日本ジオパークに加盟しています。
富江神社は富江藩の総社で、藩が成立して以降、明治に至るまで藩の庇護を受けてきました。例大祭は十月で、三百年以上続いています。
富江町岳の海岸には勘次ヶ城跡、別名を山崎の石塁という延長百八十メートルの石積みがあります。築かれたのは百五十年ほど前、つまり幕末から明治初期にあたるという説のほか、倭寇の拠点だったとする説もあります。昭和四十五年に長崎県の史跡となりました。
なお富江の珊瑚細工は幕末ではなく、明治十九年に男女群島沖で珊瑚が見つかって以降に栄えたものです。
有川湾の海境争論と捕鯨の島
福江島の南端と中通島の魚目
富江領は福江島南端の富江を中心とする3千石余で、中通島の魚目も富江領でした。分知は明暦元年(1655)、本藩の5代盛勝が叔父の盛清に分けたものとされ、本藩はこのあと1万2千石余になっています。
海の境界をめぐる争い
分知のあと、有川湾の漁業権をめぐって富江領の魚目と福江藩の有川が争いました。寛文元年(1661)に始まった「海境争論」は、元禄2年(1689)に幕府が「沖は入会(両方が使える)」と裁いて決着しています。有川村の名主・江口甚右衛門は4度も江戸に上って訴えたと伝わります。
捕鯨と富江
本藩の福江藩では捕鯨の運上銀が財政の柱でした。富江領の魚目は沖合の鯨漁で主導権を持っていたとされ、小さな領地ながら海の利権の上では本藩と対等に渡り合っていました。三根山藩主となった牧野忠泰も五島家の出身です(三根山藩)。
考察:陸は狭く、海は広い
3千石という石高だけを見ると取るに足りない領地ですが、海の上の権利をめぐっては本藩と30年近く争い抜きました。島の領主にとっての「領地」は、田畑より海だった。富江はそのことを教えてくれる場所だと思います。
富江藩をもっと詳しく
平家の末裔を名のる宇久氏から
富江五島家の本家にあたる五島氏は、もとは宇久氏といいました。文治3年(1187年)に平清盛の異母弟・平家盛が五島列島北端の宇久島に上陸し、宇久を名のったのが始まりと伝えられます。観応2年(1351年)には宇久覚が福江島の岐宿へ移り、天文9年(1540年)には通商を求めて来航した明の王直に居住地を与え、手を組んで対外貿易を行いました。天正15年(1587年)に宇久純玄が姓を五島と改め、慶長8年(1603年)に五島玄雅が徳川家康から1万5000石余りの所領を認められて、本家の福江藩が成立します。
幼い藩主の後見役が分家を立てた
富江領が生まれたきっかけは、本家の代替わりでした。福江藩主の五島盛勝は幼くして家を継いだため、叔父の五島盛清が後見役につきます。その盛清に3000石が分けられたのが富江五島家の始まりで、本家の石高は1万5000石余りから1万2000石余りに減りました。本拠の富江は古くは戸ノ浦と呼ばれ、寛永15年(1638年)に富江と改められた土地です。富江領の村数は、富江ほか7か村とする資料と、幕末の富江領を松浦郡のうち14村とする資料があります。
歴代当主の顔ぶれ
富江五島家は、盛清から盛朗、盛尚、盛峯、盛恭、運龍、盛貫、盛明と8代続きました。2代の盛朗は元禄元年(1688年)に藩校の成章館を開いています。3000石の家としては早い時期の学校です。5代の盛恭は福江藩主・五島盛道の四男で、本家から養子に入りました。6代の運龍は京極高文の娘を妻とし、のちに11代将軍徳川家斉の側近として知られる林忠英の娘を後妻に迎えています。
本家の城づくりに関わった7代盛貫
7代の五島盛貫は婿養子として家を継ぎ、異国船への備えにかかわる役目も務めました。嘉永2年(1849年)、本家・福江藩の新しい城である石田城の築城許可を幕府から受け取ったのは、この盛貫です。外国船の来航に備えた石田城は福江藩主・五島盛成のもとで着工し、文久3年(1863年)に完成しました。わずか3000石の分家の当主が、本家の築城に関わっていたことになります。盛貫は14代将軍徳川家茂のそば近くに仕えたとも伝えられます。
本家が富江領を求めた背景
本家の福江藩は、分知で石高が減ったうえに、長く財政難に悩まされていました。宝暦11年(1761年)には、領民の娘を武家へ3年間無給で奉公させる「三年奉公制」を始め、藩政史上最大の悪政とも評されます。天明の飢饉で財政はさらに苦しくなり、文政3年(1820年)に産物方、天保5年(1834年)に有川産物会所を設けて収入の増加を図りました。そこへ異国船への警備と石田城の築城という大きな出費が加わります。慶応年間に持ち上がった富江領の併合は、こうした積み重なった財政難の延長線上にありました。
北海道に与えられた領地
8代の盛明は溝口養正の実子で、富江五島家に養子として入りました。富江騒動ののち、明治2年(1869年)に新政府は旧領のうち1000石だけを認め、代わりの土地として後志国磯谷郡の南部、いまの北海道寿都町の一部を与えます。ただし富江の人々がこの地へ移り住むことはありませんでした。盛明のあとは五条為定の子・基民が継ぎ、その次の聰千代は、のちに富江町の初代町長となっています。
3000石の動員兵力の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人が動員の目安とされました。これを富江領の3000石に当てはめて十人単位に丸めると、およそ70人になります。この規定は案のまま発布されなかったとする説もあり、実際の動員数を示すものではありません。それでも、大名並みの格式を持つ交代寄合でありながら、兵力では一つの小隊ほどの規模だったことがうかがえます。



