【現地取材】日本で唯一の穴城・小諸城—牧野家と赤報隊事件の記憶

信濃国小諸(現在の長野県小諸市)には、城下町よりも低い場所に築かれた全国でも珍しい「穴城」、小諸城がありました。幕末には牧野家一万五千石の小諸藩の居城として、赤報隊事件という戊辰戦争の知られざる一幕の舞台にもなっています。晴れた日に、現在「懐古園」として親しまれるその城跡を歩いてきました。

目次

小諸城とは—仙石秀久が築いた”穴城”

小諸城は、天正十八年(1590年)に入城した仙石秀久によって、現在に近い姿へと大改修されました。最大の特徴は、城郭が城下町よりも低い場所に築かれている点です。城下から城内を見渡せてしまうこの珍しい構造から「穴城」とも呼ばれます。なお「鍋蓋城」は長享元年に築かれた前身の城の名で、その名は小諸城の三ノ丸にあたる鍋蓋曲輪に残っています。浅間山麓の谷を空堀として、千曲川の断崖を天然の防御に利用するという、独特の縄張りが施されました。城内に残る三之門は元和元年(1615年)の建立と伝わり、水害による損壊を経て明和三年(1766年)に再建されたもので、大手門とともに国の重要文化財に指定されています。三之門に掲げられた「懐古園」の扁額は、徳川宗家16代・徳川家達の筆によるものです。

懐古園の三之門
懐古園の三之門。掲げられた「懐古園」の扁額は徳川家達の筆による。

幕末の小諸藩—赤報隊事件

元禄十五年(1702年)に牧野康重が一万五千石で入封して以来、国替えなく明治を迎えたのが小諸藩です。幕末最後の藩主・牧野康済の時代、慶応二年(1866年)には藩内の対立から「小諸騒動」が起こりましたが、本家・長岡藩で奉行格加判をつとめた河井継之助の調停によって事なきを得ました。そして迎えた慶応四年(1868年)、康済は信濃追分において倒幕の先鋒を称した「赤報隊」と交戦し、これを退けます。赤報隊はのちに「偽官軍」として新政府から断罪された部隊で、小諸藩が兵を出したのも東山道鎮撫総督からの捕縛命令にもとづく行動でした。ただし康済はこのあと、明治二年九月に領内で起きた小諸騒動の責任を問われて謹慎を命じられています。その後、公家・岩倉具視の取りなしや、碓氷峠の警備における功績が認められて許され、以後は新政府軍に与しています。それでも藩内の対立は根深く、同年十一月には再び騒動が起こり、多くの重臣が処罰される事態となりました。牧野康済は明治二年(1869年)の版籍奉還で小諸藩知事に任じられ、明治四年(1871年)の廃藩置県で小諸藩は幕を閉じます。小諸藩の詳しい歩みは全藩情報のページでも紹介しています。

小諸城の石垣と松
小諸城の石垣に根を張る松。穴城ならではの高く積まれた石垣が、城の防御の要となっていた。

現地を歩いて感じたこと

懐古園として整備された小諸城跡は、大手門をくぐり三之門を抜けると、石垣の上に松がたくましく根を張る、独特の景観が広がっていました。城下より低い「穴城」という構造は、実際に歩いてみるとその珍しさがよくわかり、千曲川に面した断崖からの眺めも見応えがあります。赤報隊と戦い、勝ったにもかかわらず罪を問われたという小諸藩の逸話は、戊辰戦争という時代の複雑さを物語っているように感じました。

アクセス(所在地)

小諸城址・懐古園は長野県小諸市丁にあります。しなの鉄道・JR小諸駅から徒歩約3分です。

まとめ

小諸城は、仙石秀久が築いた全国でも珍しい「穴城」で、江戸時代を通じて牧野家一万五千石の居城として続きました。幕末には赤報隊との交戦とその後の捕縛という数奇な運命をたどり、戊辰戦争の複雑な実相を今に伝えています。石垣と松が織りなす懐古園の風景の中に、その記憶を訪ねてみてください。各藩の歴史は全藩情報もあわせてどうぞ。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真をもとに書いています。史実にあたる部分は、公開されている文献資料や自治体の文化財情報で確認しています。

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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