【藩名】
茨木藩
【説明】
戦国時代、茨木の地には「織田信長」の家臣であった「中川清秀」が入っていたことで有名です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで豊臣秀頼が65万石の一大名に転落すると、茨木は豊臣氏の家老「片桐且元」が城主となりました。且元は関ヶ原の後、徳川家康より大和国竜田藩に所領を与えられていたが、茨木にそのまま領地を持ち続けていました。

且元は衰退する豊臣氏を懸命に支え、その存続に尽力しました。一部では且元が「大坂の陣」直前に家康に寝返ったため裏切り者扱いされているが、大坂城にいる豊臣秀頼や淀殿、大野治長などが、家康との交渉に尽力する且元が家康と内通しているのではないかと猜疑し、且元を暗殺しようとしたため、且元はやむなく大坂城を退去したようです。

そこで弟の「片桐貞隆」とともに茨木城に立て籠もるしかありませんでした。大坂の陣で豊臣氏が滅亡した直後、且元は急死しています。また、貞隆も大和国小泉(大和郡山市)に所領を与えられた(小泉藩)ため、茨木は幕府領となりました。そして茨木城は一国一城令で廃城となりました。
茨木城が残したもの
片桐且元が亡くなって藩が絶えたあと、茨木城は一国一城令によって取り壊されました。茨木城については元和二年(1616年)に茨木代官の間宮三郎らの立会いで壊されたとされ、茨木神社の社伝は元和三年(1617年)とします。年は一つ食い違っています。
城跡は宅地になり、遺構らしいものは残っていません。ただ、門が二つ、形を変えて生き延びました。
一つは茨木神社の東門です。社伝によれば、廃城の際に搦手門を貰い受けて移したもので、これは本物の移築現存にあたります。もう一つ、茨木市立茨木小学校の正門に建つ櫓門は、平成五年(1993年)五月、創立百二十周年の記念事業として木造瓦葺きで復元されたものです。こちらは復元であって移築ではありません。本丸にあった実際の櫓門は、奈良の慈光院へ移されたと伝わります。小学校は茨木城の本丸跡に建っており、正門の内側には城の由来を記した石碑と、本丸跡の標石があります。
幕末の茨木はどこの領地だったか
大坂の陣ののち、茨木のあたりは幕府領になりました。城の取り壊しを茨木代官が担っていることも、これと符合します。
ただし幕末の茨木村がどの支配に属していたかは、村ごとの記録にあたらないとはっきりしません。島下郡では明治三年に高槻藩の預地が兵庫県の管轄となり、一橋徳川家領や田安徳川家領も同じく兵庫県へ移っています。つまり幕末の島下郡には、幕府領と高槻藩の預地、御三卿の領地が入り混じっていました。茨木村がそのどれだったかは、確かめられていません。
椿の本陣——西国街道の真ん中
茨木市域で幕末を色濃く残すのは、城跡よりむしろ街道筋です。
西国街道の宿場は京都から西宮まで、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽と並びます。茨木市域にあるのは郡山宿で、京都と西宮のちょうど中間にあたりました。茨木の町そのものが宿場だったわけではありません。
この郡山宿の本陣が、いまも宿川原町に残っています。門のそばの椿が毎年五色の花を咲かせたことから「椿の本陣」と呼ばれました。享保六年(1721年)の類焼のあと、西国の諸大名らの寄付で建て直されたもので、母屋・土蔵・茶席・納屋が当時のまま残ります。昭和二十三年十二月に国の史跡に指定され、平成の大規模修復を経て公開されてきました。
もっとも大事なのは宿帳です。元禄九年(1696年)から明治三年(1870年)まで、どの大名がいつ立ち寄り、何を食べたかまで記録が残っています。幕末の西国街道を大名行列が行き来した様子を、日付つきでたどれる史料が茨木にあるわけです。なお本陣は現在、公開が中止されているため、訪ねる前に茨木市へ確かめてください。
北摂の幕末
茨木の周囲を見ておきます。高槻藩は永井家三万六千石の譜代で、幕末の藩主は慶応元年に十七歳で家督を継いだ永井直諒でした。鳥羽・伏見の戦いでは幕命により洞ヶ峠の警備にあたったものの戦火を交えず、その後は新政府に従っています。態度を明らかにしないまま情勢を見ていたと評する資料もあり、確かなのは交戦しなかったという点です。高槻城の跡はいま高槻城公園として整備されています。
麻田藩は摂津豊島郡麻田村(現在の豊中市蛍池)に陣屋を置いた外様の青木家で、十四代二百五十五年続いて廃藩置県を迎えました。幕末の表高はおよそ一万石、最後の藩主は青木重義で、立場は中立です。
尼崎藩の桜井松平家は慶応四年一月に朝廷へ恭順を示して領地を安堵され、同年二月、新政府の指示で松平から桜井へ姓を改めています。最後の藩主の松平忠興は、のちに日本赤十字社の前身である博愛社の設立に関わった一人でもあります。
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