竜田藩/片桐家1万石:片桐為次 片桐且元に始める藩だが片桐為次が若くして死去し無継嗣のため廃藩

【藩名】
竜田藩

【説明】
「片桐且元」は大坂の陣の戦後、大和滝田4万石に加増されたが、豊臣家滅亡から20日後に死去しています。且元の死後は子の「片桐孝利」が継いだが藩政の基礎固めなどに専念している中、寛永15年(1638年)8月に38歳で死去しました。

孝利には嗣子がなく、一時は絶家となりかけたが且元の功績を考慮して弟の「片桐為元」が家督を継ぐことで存続を許されました。しかし所領は4万石から1万石に減らされました。承応3年(1654年)5月に為元は44歳で死去し、「片桐為次」が継いだが為次は翌年11月、父の後を追うように15歳の若さで死去します。若い為次には嗣子がなく竜田藩は廃藩となりました。

しかし幕府は「片桐且元」の「大坂の陣」における功績を考慮して、為次の弟にあたる「片桐且昭」を3000石の交代寄合として取り立てることで片桐氏の名跡を存続させようとしました。ところが且昭も嗣子に恵まれずして死去しました。このため、且元の弟の「片桐貞隆」から始まる小泉藩の一族から「片桐貞就」を養嗣子として迎えて跡を継がせたが、この貞就も元禄7年(1694年)2月に17歳で死去しました。

当然貞就にも嗣子がなく且元系統の片桐氏は完全に断絶するに至りました。

目次

城下町は五十四年で終わり、商いの町として生き延びました

豊臣家の家老が、大和にもらった土地

竜田藩を開いた片桐且元は、浅井氏の家臣片桐直貞の子で近江の生まれです。賤ヶ岳の七本槍の一人として名を挙げ、のちに豊臣秀頼の傅役となって大坂城の筆頭家老を務めました。慶長六年(1601年)に平群郡へ領地を得て龍田村に陣屋を構えます。石高は斑鳩町の資料では斑鳩地域を含む五十五か村で二万四千四百七石余、奈良県も二万四千石とし、二万八千石とする辞典もあります。陣屋が置かれたのは中世の龍田氏の居館跡で、完成したのは次の代の孝利のときでした。弟の貞隆が小泉に入っていますから、片桐兄弟は大和で隣り合う土地を分け持ったことになります。

方広寺の鐘の銘から、すべてが変わりました

慶長十九年(1614年)の方広寺鐘銘事件のあと、且元は淀君らと不和になって大坂城を退きます。そして冬・夏の両陣を通じて関東方として大坂城を攻める側に回りました。豊臣家の家老が、豊臣家を攻めたわけです。元和元年(1615年)に加増されて四万石となりましたが、その年の五月二十八日に駿府で病没しています。大坂城が落ちてから二十日ほどあとのことでした。

三代続けて跡継ぎに恵まれませんでした

二代の孝利は龍田の城下町を本格的に整えた人ですが、寛永十五年(1638年)に三十八歳で嗣子のないまま没します。末期養子として継いだ三代為元のとき、四万石は一万石へ減らされました。その為元も承応三年(1654年)に没し、四代為次が明暦元年(1655年)に十五歳で、やはり跡継ぎのないまま世を去ります。ここで竜田藩は改易となりました。立藩から五十四年です。幕府は且元の功を考慮して、弟の且昭を三千石の旗本寄合席に取り立てています。家は残りましたが、藩は消えました。

廃藩後は代官の支配で、幕末まで

斑鳩町の資料は、廃藩後のこの地域について「近隣の大名が預かることもあったが、幕府直轄領として代官によって支配されることになった」と記しています。幕末の時点でも幕府領で、旧高旧領取調帳の段階では奈良奉行の管轄でした。つまり竜田には、幕末の藩はありません。

それでも町は栄えていました

ところが興味深いのはここからです。斑鳩町の資料によれば、寛政十二年(1800年)の龍田村大字龍田には屋号を持つ商店が百二十一軒ありました。酒屋と絞油屋があり、龍田で酒・繰綿・油に加工して各地へ売る商業地として発展していたのです。城下町としての機能を失ってから百五十年近くたっても、町のほうは商いの町として生き続けていました。藩がなくなることと、町がさびれることは別だったということになります。

残っているもの

龍田城跡に文化財の指定はありません。斑鳩町の町指定文化財は駒塚古墳・調子丸古墳・安田家文書の三件で、竜田藩に関わるものは含まれていません。竜田川沿いのいまの竜田公園のあたりが外堀の跡にあたるとされ、内堀の一部が池として残っていると伝えられますが、こちらは確かな出典を確認できませんでした。

【場所・アクセス・地図】

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次