大垣新田藩(大垣藩支藩)
藩の歩み
明暦元年(1655年)、戸田氏鉄の次男「戸田氏経」は兄の「戸田氏信」から美濃国大野郡内の新田四千石を加増されて六千二百石の知行を得ました。その後、「戸田氏利」が後を継ぎ、元禄元年(1688年)七月、さらに氏利の後を継いだ「戸田氏成」が、兄の戸田氏定から美濃国内の新田三千石を分与され、さらに養父の氏利の所領と渥美郡内の新田分を合わせて一万石となったため大垣新田藩が立藩されました。藩庁は三河国渥美郡畑村に置きました。
氏成の後を継いだ「戸田氏房」は大番頭・奏者番・西丸若年寄など幕府の要職を歴任し、戸田氏之(大番頭)、戸田氏養、戸田氏綏と代が続きました。慶応四年(1868年)三月十九日、最後の藩主「戸田氏良」は上洛し恭順の姿勢を示しました。戊辰戦争では新政府軍に従い北越戦争に参戦しました。
明治二年(1869年)二月に版籍奉還を願い出た大垣新田藩は、同年五月二十七日、藩庁を美濃国大野郡野村に移したため大垣新田藩は「野村藩」と改名しました。
本家・大垣藩との関係
大垣新田藩は、美濃の大垣藩(戸田家)から分かれた支藩です。本家から美濃国内の新田三千石を分与され、旗本時代からの所領と合わせて一万石となった大名で、三河国渥美郡畑村(畠村)に陣屋を構えたことから「畑村藩」とも呼ばれました。最後の藩主は戸田氏良です。
幕末、本家の大垣藩は当初は佐幕的でしたが、鳥羽・伏見の戦いののちいち早く新政府方へ転じ、以後は官軍として各地を転戦しました。大垣新田藩もこの宗家と歩みをともにしています。維新後、藩は野村藩と改称して廃藩置県を迎えました。
藩名は美濃、藩庁は三河—最後の年に名と場所が一致した
大垣新田藩は、大垣藩戸田家から新田を分けられて成立した一万石の支藩です。この藩のいちばんの特徴は、藩の名と藩庁の場所が百八十年ほど食い違っていたことです。
「大垣新田」なのに三河にあった藩庁
元禄元年(1688年)、戸田氏成の代に本家から美濃国内の三千石を分け与えられて一万石となり、藩として成立しました。分知された三千石は当初は蔵米で支給され、のちに美濃国内の領地に振り替えられています。ところが藩庁は美濃ではなく、三河国渥美郡の畠村に置かれました。もともとこの地に戸田家の知行地があったからです。そのため同じ藩が「大垣新田藩」とも「畑村藩(畠村藩)」とも呼ばれてきました。名は美濃、実体は三河という、ねじれた藩だったわけです。
そのねじれが解けたのは、藩が終わる直前でした。明治二年(1869年)五月、新政府から、藩名にあてる城邑の名としてふさわしい郡村名や土地の旧名があれば申し立てるようにという方針が伝えられ、同月二十七日、藩は陣屋を三河の畠村から美濃国大野郡の野村へ移し、藩名を野村藩と改めました。さらに明治三年(1870年)には野村の荒地を開いて藩庁・藩の学校・藩士の屋敷を新たに整えています。藩の名と藩庁の場所がようやく一致したのは、廃藩の一年ほど前ということになります。
本家より早く版籍奉還を申し出た
幕末の藩主は戸田氏良です。天保十年(1839年)に大垣藩主・戸田氏正の次男として生まれ、安政二年(1855年)に大垣新田藩の養子として家督を継ぎました。戊辰戦争では新政府に従い、北越戦争に出兵しています。明治二年(1869年)六月には軍功として二千両を賜ったと伝わります。
興味深いのは本家との歩みの差です。本家の大垣藩は鳥羽伏見で旧幕府方として戦って朝敵とされ、家老の小原鉄心が藩論をまとめて藩主・戸田氏共が新政府に謝罪し、そこから新政府軍の先鋒へ転じました。一方の支藩は、明治二年二月に本家より早く版籍奉還を申し出ています。小さな藩ほど身の振り方を早く決めなければならなかった事情がうかがえます。氏良は明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ、明治二十五年(1892年)に亡くなりました。
江戸の藩邸にあった藩校
藩校は済美館と伝わります。文久三年(1863年)に江戸の藩邸内に開かれ、明治元年に大垣へ移って典学寮と改称し、明治三年には野村へ移ったとされます。藩庁が三河にありながら藩校は江戸にあったというのも、この藩の性格をよく表しています。
廃藩置県では野村県となり、明治四年(1871年)十一月に美濃国全域を管轄する岐阜県へ編入されました。三河にあった領地は額田県に属し、翌年に愛知県となっています。一つの藩の領地が、廃藩後に二つの県へ分かれていったことになります。
浅野内匠頭の従弟と、野村藩への転身
旗本から始まった家
この家の始まりは元和5年(1619)、大垣藩主戸田氏鉄の次男・氏経が旗本となり、三河国渥美郡の5か村1千5百石を与えられたことです。陣屋のあった畑村(畠村とも)は、今の愛知県田原市福江町にあたります。
刃傷事件に連座した氏成
氏成は大垣藩3代戸田氏西の次男で、貞享元年(1684)に旗本・氏利の養子に入りました。元禄14年(1701)には、従弟の浅野長矩の刃傷事件に連座して出仕を止められています。元禄5年(1692)には、跡継ぎがなく改易された遠藤家の再興にも関わったとされます。
版籍奉還と野村藩
版籍奉還のとき、実態のない藩とみなされて氏良は知藩事に任命されませんでした。そこで陣屋を美濃の野村に移し、明治2年10月に野村藩知事に任じられています。大垣藩主の戸田氏共は、蔵米3千石の支給をやめる代わりに野村など3千石を分け与えました。野村陣屋跡(大野町上秋)には堀跡と土塁の一部が残ります。
考察:名目の藩が最後に「実体」を求めた
蔵米で暮らしてきた支藩が、明治になって知藩事になるために土地と陣屋を求めた。藩という仕組みが消える直前に、ようやく実体を持った藩だったと言えるでしょう。
大垣新田藩をもっと詳しく
三河戸田氏の流れ—膳所から大垣へ
大垣藩と大垣新田藩の戸田家は、三河の戸田氏の支流とされる家です。大垣藩祖・戸田氏鉄の父の一西は三河吉田の生まれで、永禄年間には渥美郡の多米あたりを領していたとされます。一西は徳川家康に仕えて三河譜代の家臣となり、関ヶ原の戦いのあと慶長6年(1601年)に3万石を与えられ、膳所城を築いて大津藩(のちの膳所藩)の初代となりました。旧領の武蔵川越から琵琶湖へシジミを移し、漁を勧めたという話も残ります。関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠の軍に従い、上田城攻めに反対したと伝えられ、慶長9年(1604年)に62歳で亡くなりました。死因は落馬だったといわれます。その子の氏鉄がのちに美濃大垣10万石へ移り、氏鉄の次男・氏経が分かれて旗本となったのが、大垣新田藩の家の始まりです。一族ゆかりの渥美郡に、分家がふたたび知行地を得たことになります。
間宮氏の旧領から始まった旗本領
元和5年(1619年)に氏経が与えられた渥美郡の畠村など5か村は、それまで水軍衆の流れをくむ間宮氏が治めていた土地でした。間宮氏がこの所領を失ったいきさつはわかっていません。明暦元年(1655年)、氏経は三河国額田郡で700石を加増され、同じ年に兄の氏信から美濃国大野郡の新田4000石を分けられて6200石となりました。新田として与えられた知行は、のちにもとからの耕作地へ切り替えられています。
三河と美濃、領地の割合の変化
元禄元年(1688年)に1万石の大名となったとき、領地は三河が3000石、美濃が7000石でした。それがのちに三河6000石、美濃4000石へと入れ替わります。藩庁を置いた三河の比重が増した形ですが、藩名は最後まで「大垣新田」のままでした。藩主は氏成のあと氏房、氏之、氏養、氏綏と続き、氏綏が安政2年(1855年)5月に亡くなると、本家の大垣藩主・戸田氏正の次男だった氏良が養子として家督を継ぎました。支藩の跡継ぎを本家から迎えた形です。明治の大垣藩主・戸田氏共も氏正の五男で、氏良より15歳年下の弟にあたります。慶応元年(1865年)、長兄の氏彬が病死したため本家を継いでいました。明治2年(1869年)に氏共が野村など3000石を分けて支藩に土地を持たせたのは、弟から兄への分与でもありました。氏共はのちに伯爵となり、オーストリア=ハンガリー駐在の全権公使も務めています。
最後の藩主・氏良の明治
氏良は天保10年(1839年)5月28日の生まれです。慶応4年(1868年)3月19日に上洛して新政府に恭順し、北越戦争に兵を出しました。明治2年(1869年)6月2日に軍功として2000両を受け、同年10月23日に野村藩知事に任じられています。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となり、同年9月に東京へ移りました。明治17年(1884年)7月8日に子爵となり、明治25年(1892年)3月16日に54歳で亡くなっています。
動員兵力の目安
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定では、1万石あたり235人を出すことになっています。大垣新田藩の1万石なら、目安はおよそ240人です。ただしこの規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。
畠村陣屋のいま
三河の畠村陣屋があったのは、いまの愛知県田原市福江町です。渥美半島の先端に近く、半島の付け根には三宅家の田原城がありました。藩庁が美濃の野村へ移ったあと、畠村陣屋の総門と役所門はそれぞれ近くの民家に移されたと伝えられます。藩名と藩庁の場所が食い違った180年ほどのあいだ、藩の役所が置かれていたのは、この半島の先の村でした。



