福束藩の歩み
「福束藩」は、江戸時代の藩としては数えられていません。このページで紹介するのは、福束城と、その城主だった丸毛兼利の話です。美濃国安八郡福束、現在の岐阜県安八郡輪之内町にあたります。
関ヶ原の半月前に、一夜で落ちた城
丸毛氏は応永三十五年(1428年)以来の福束城主です。二百年近くこの地にいた家でした。
慶長五年(1600年)、丸毛兼利は石田三成に誘われて西軍につきました。そして八月十六日から十七日にかけて、東軍の市橋長勝・徳永寿昌の夜襲を受け、福束城は一夜で落ちます。兼利は大垣城へ退きました。
関ヶ原の本戦は九月十五日です。つまり本戦のおよそ半月前に、西軍の前線はすでに崩されはじめていました。天下分け目の戦いを「一日の決戦」として覚えていると見落とすが、実際には濃尾平野のあちこちで、こうした小さな城が先に片づけられていました。
負けた武将を、加賀が拾った
改易された兼利は、そののち加賀藩の前田利常に仕えて二千石を得ています。正保四年(1647年)に没しました。
関ヶ原で西軍についた武将を、加賀百万石が家臣として抱えます。前田家はこうした人材をかなり受け入れており、それが百万石の家中の厚みにもなりました。幕末に加賀藩が身動きの取れない大所帯になっていた理由の一つは、こういう二百数十年の積み重ねにあります。
川が消した城と、幕末の福束
福束城の遺構は残っていません。揖斐川の流路が変わったためです。近くの福満寺に、城の様子を刻んだ古い版木と、丸毛兵庫頭の墓が伝えられています。
幕末の安八郡福束村は、大垣藩領と天領でした。鳥羽・伏見で幕府方として戦い、数日後には新政府軍として東へ進んだ、あの大垣藩の領地です。城が落ちてから二百六十年後、この土地はもう一度、旗色を変える藩の下にありました。
福束城を落とした側の、その後
福束城に夜襲をかけた二人の東軍の武将の家も、それぞれの道をたどりました。徳永寿昌は関ヶ原の功で美濃高須五万六千石の大名となりましたが、二代目の昌重が寛永五年(1628)に大坂城の石垣普請の遅れなどを咎められて改易されています。
もう一人の市橋長勝は、美濃の土豪の出で、信長・秀吉に仕えた武将です。関ヶ原のあと伯耆の矢橋(矢橋藩)、越後の三条へと移って加増を重ねましたが、元和六年(1620)に跡継ぎのないまま亡くなりました。家は甥の長政が継ぐことを許され、石高を減らして近江の仁正寺(にしょうじ)へ移ります。この家は明治まで続き、幕末の文久二年(1862)には藩名を西大路と改めました(仁正寺藩(西大路藩))。
城を守った丸毛家は加賀藩の家臣として、城を攻めた徳永家は改易、市橋家は近江の小大名として、関ヶ原の前哨戦にかかわった三つの家は、それぞれまったく違う形で江戸時代を過ごしたことになります。
輪中の城
福束城のあった輪之内町は、その名のとおり、木曽川・長良川・揖斐川の水に囲まれた輪中の土地です。村のまわりを堤防で囲んで水害から守る輪中は、城にとっては天然の堀でもありました。のちに川の流れが変わって城跡が失われたのも、この土地が川と隣り合わせだったからです。
同じころの美濃—岐阜城の落城
関ヶ原の前哨戦 福束城が落ちた慶長五年(1600)八月、美濃では関ヶ原の本戦に先立つ戦いが続いていました。八月二十三日、福島正則・池田輝政らの東軍は、西軍についた岐阜城を攻め落とします。城主は織田信長の孫・織田秀信でした。信長が天下統一の拠点とした城が、わずか一日で落ちたのです。
本戦へ 岐阜城の落城で、美濃の西軍の拠点は大垣城へと移りました。家康は九月一日に江戸を発ち、九月十五日、関ヶ原で本戦が行われます。福束城のような小さな城の攻防も、この大きな戦いへと続く流れの一部でした。
揖斐川の川湊の城—福束城と丸毛兼利
舟運の拠点だった福束
福束藩の福束城(いまの岐阜県輪之内町)は、揖斐川の舟運の拠点だった城です。近くには船附・栗笠・烏江という西美濃の川湊があり、牛屋川(水門川)で大垣とつながっていました。いまも「船附」「渡場」といった地名が残ります。「福束」の名は、洪水のときに逃げ込む塚「噴塚」から来たという説と、室町時代に揖斐川の舟運を取り仕切った福束氏にちなむという説があります。
丸毛家と今尾城の因縁
城主の丸毛兼利の父・光兼は、信長から今尾城をもらっていました。光兼の出自は、土岐氏の分家とする説と、信濃の小笠原氏の分家とする説があります。丸毛家が福束へ戻ったあと、今尾城は市橋長勝に与えられました。関ヶ原の前哨戦で福束城を攻め落とした東軍の一人がこの市橋です。丸毛家は、自分のかつての城の主に攻められたことになります。兼利の弟・利勝は早くから家康に仕え、旗本として家を残しました。
関ヶ原の「最初の前哨戦」
福束城の戦いは、関ヶ原の戦いの最初の前哨戦とされます。両軍は川をはさんで向き合い、石田三成は救援の兵を送りましたが、福束城は落ちました。福満寺に伝わる版木には、本堂と丸毛兵庫頭の墓、そして石垣と城跡が描かれていて、福束城を伝えるただ一つの資料とされています。案内板は福満寺の境内にあります。
川の城は、川に消えた
明治の木曽三川分流工事で揖斐川はまっすぐに付け替えられ、堤防の外の多くの家が移転しました。舟運で栄えた城が、川の工事で姿を変えた土地に埋もれている。福束を訪ねるなら、城跡より先に「川の流れ」を見てほしいと思います。
福束藩をもっと詳しく
応永21年、福束を名のる武士が築いた城
福束城は、応永21年(1414年)に土岐氏の家臣・福束蔵人十郎益行が揖斐川沿いに築いたと伝わります。正長元年(1428年)に丸毛光慶がこの城に入り、以後は丸毛氏が代々の城主となりました。関ヶ原の戦いまで、およそ190年にわたって福束を治めた家です。関ヶ原のあとは城主が置かれず、市橋長勝が城番を務めたのち、取り壊しが命じられています。
2万石の城主と、動員兵力の目安
関ヶ原の前年ごろの大名の石高を記した記録や美濃の地誌によると、丸毛兼利は福束で2万石を知行していたとされます。福束を「藩」と呼ぶなら、2万石の大名家だったことになります。
江戸時代の慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされる「1万石あたり235人」をあてはめると、2万石では十人単位でおよそ470人が動員の目安です。この規定は案にとどまり発布されなかったとする説もあり、時代も関ヶ原より後のものですが、一夜で落ちた城の兵力を想像するひとつの手がかりにはなります。兼利は小田原の戦いに200騎を率いて加わったとも伝わります。
福島正則の配下から、西軍へ
兼利ははじめ父とともに斎藤龍興に仕え、永禄10年(1567年)ごろ織田信長に移りました。永禄12年(1569年)の伊勢大河内攻めに加わり、本能寺の変ののちは豊臣秀吉に従って、小牧・長久手、九州、小田原の戦いに出ています。
慶長5年(1600年)、兼利は広島藩主となる前の福島正則の配下にあったとされます。東軍の横井時泰から味方になるよう誘われましたが、これを断って石田三成の西軍に加わりました。正則が東軍の先鋒として美濃へ攻め込むなかで、その配下だった城主が西軍に立ったことになります。
兼利は二人いたのか
兼利は加賀藩で2000石を得て、晩年は剃髪して道和と名のり、正保4年(1647年)に亡くなったとされます。ところが、永禄10年ごろにはすでに父とともに戦っていた人物が正保4年まで生きたとすると、90歳から100歳近い長寿になってしまいます。このため、父の親吉は慶長5年8月17日に陣中で亡くなり、兼利の名で伝わる事績は親子2代分が重なったものだとする説もあります。名前も親吉・安職・兼頼・長隆など多くが伝わり、人物像にははっきりしないところが残ります。
家はその後、加賀藩士として続きました。早くから家康に仕えた弟・利勝の系統もいくつにも分かれ、旗本の丸毛家として続いています。
輪之内に残る宝暦治水の跡
福束城が消えたのち、この輪中の土地は江戸時代の大きな治水工事の舞台になります。宝暦3年(1753年)12月、幕府は薩摩藩に木曽三川の治水工事の手伝いを命じました。翌年2月に始まった工事は、宝暦5年(1755年)3月に完成します。薩摩からはおよそ1000人が送られ、工費は当初の見込みの14〜15万両に対して約40万両にふくらみました。工事を率いた家老の平田靱負は、引き渡しを終えたあと自害しています。
とくに難しかった工事のひとつが、長良川と揖斐川を結ぶ大榑川の洗堰でした。輪之内町の大藪には洗堰の跡が伝わり、町内の江翁寺や心巌院には工事のさなかに亡くなった薩摩藩士の墓があります。工事で亡くなった人の数は資料によって異なり、80人を超えたとするものが多くみられます。幕末に倒幕の中心となる薩摩藩が、その100年あまり前、福束のすぐそばで幕府に命じられた工事に財政を傾けていたのです。



