大垣藩/戸田家10万石:戸田氏共 鳥羽伏見の戦い後に恭順し戊辰戦争では新政府軍として参戦した大垣藩

目次

大垣藩の歩み

第11代藩主「戸田氏共」は第2次長州征伐に参加し、慶応二年(1866年)からは藩政改革を断行しています。慶応四年(1868年)に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では大垣藩兵も旧幕府軍と共に新政府軍と戦い、朝敵に指定されました。しかし新政府に出仕していた大垣藩士「小原鉄心」が直ちに大垣に帰国して先々代藩主である「戸田氏正」とともに氏共や佐幕派を説得して尊王派に藩論を統一。

大垣藩/場所・アクセス・地図 戸田家10万石:戸田氏共 鳥羽伏見の戦い後に恭順し戊辰戦争では新政府軍として参戦した大垣藩【幕末維新写真館】

その上で謝罪し許されて「戊辰戦争」では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めています。大垣藩兵は北関東や奥羽戦争にも出兵し、明治二年(1869年)六月には新政府から賞典禄三万石が下賜されました。「版籍奉還」で氏共は大垣藩知事に任じられ、明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」により大垣藩は廃藩となり、大垣県を経て岐阜県に編入されました。

家老の小原家は鉄心の明治維新時の活動を功績され、明治三十三年(1900年)に男爵に叙せられています。

美濃の要・大垣藩

大垣藩は、美濃国(現在の岐阜県大垣市)に置かれた十万石の藩で、水堀をめぐらせた大垣城を居城とし、藩主は譜代の戸田家でした。中山道と美濃路が交わる交通の要衝を治め、西国と江戸を結ぶ幹線を押さえる、幕府にとって重要な藩でした。

鳥羽・伏見からの大転換

戊辰戦争の緒戦・鳥羽伏見の戦いで、大垣藩は当初、旧幕府方として戦いました。しかし敗色が濃厚になると、藩はすばやく新政府方へと転じます。以後は一転して新政府軍の主力の一つとなり、北越や会津など各地の戦いに積極的に加わりました。譜代大名が土壇場で進路を切り替え、その後は新政府の戦力として奮戦した、幕末の大きな転換を体現する藩です。

大垣藩をもっと深く—朝敵になりかけた数日間

戊辰戦争の「官軍」がどうやって作られたのかを知るのに、大垣藩ほど分かりやすい例はありません。この藩は鳥羽・伏見では幕府方の主力として戦い、その数日後には新政府軍の一員として東へ進軍しています。

幕府方として戦った鳥羽・伏見

慶応四年正月、大垣藩兵は旧幕府軍に属して淀・八幡の線で戦いました。西国の入口を押さえる十万石の譜代として、幕府の期待は小さくありませんでした。そして敗れました。

この時点で大垣藩は朝敵になる寸前です。津藩のように寝返って味方の背後を撃つでもなく、姫路藩のように城を囲まれるでもなく、大垣はただ、負けた側にいました。

小原鉄心が帰ってきた

藩を救ったのは、京都で情勢を見ていた重臣・小原鉄心です。鉄心は敗報とともに大垣へ急ぎ、藩論を一挙に新政府支持へ転換させました。数日の判断でした。

鉄心は早くから諸藩の要人と交わり、幕府の先がないことを見抜いていたといわれます。判断が早ければ藩は残り、遅ければ潰れます。加賀藩は百万石ゆえに動けず、岡山藩は御三家の血筋ゆえに揺れました。大垣は小回りが利きました。

昨日の敵の陣へ

藩論を変えた大垣藩は、東山道軍に加わって北越から会津へ転戦します。長岡藩と戦い、会津藩を攻めました。

会津の側から見れば、大垣は数日前まで同じ側にいた藩です。戊辰戦争の「官軍」の相当部分は、こうして最後の瞬間に旗を替えた藩でできていました。誰が正しかったかという話ではなく、藩を残すという一点で全員が動いていました。大垣藩の場合、その判断がたまたま早く、たまたま正しかったです。

国宝だった天守

大垣城の天守は四層の美しい建築で、昭和十一年に国宝に指定されています。それが失われたのは昭和二十年七月の空襲です。幕末の戦争をすり抜けた城が、次の戦争で焼けました。尾張藩の名古屋城も同じ年の空襲で失われています。

現在の天守は昭和三十四年の再建で、外観は焼失前の姿に近づけて造られました。

水の城下

大垣は自噴の地下水に恵まれた土地で、いまも町なかに湧き水の井戸があります。芭蕉が『おくのほそ道』の旅を終えた地でもあります。城を囲む水堀も、この豊かな水が支えていました。攻めにくい城であったことと、住みやすい町であったことは、同じ理由から来ています。

大垣藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—戸田家が入るまで

大垣は美濃と近江を結ぶ要地で、戦国時代には斎藤道三と織田信秀が奪い合い、豊臣秀吉の時代には池田恒興や豊臣秀次・秀長など政権の重鎮が城主を務めました。関ヶ原の戦い(慶長五年・1600年)では城主の伊藤盛正が西軍につき、石田三成が一時ここに入りましたが、決戦を前に三成は大垣を離れて関ヶ原へ向かいました。盛正は敗れて改易となっています。

江戸時代の初めは藩主の交代が続きました。慶長六年(1601年)の石川康通(5万石)に始まり、久松松平家の松平忠良、岡部長盛・宣勝、久松松平家の松平定綱と、わずか三十数年のあいだに4家が入れ替わっています。寛永十二年(1635年)に摂津尼崎藩から戸田氏鉄が10万石で入ってからは、明治維新まで戸田家の支配が続きました。

先祖の戦国武将—戸田一西

大垣藩戸田家の初代とされるのは、氏鉄の父・戸田一西(かずあき)です。三河国吉田(今の愛知県豊橋市)の生まれで、徳川家康に仕えた三河譜代の家臣でした。天正十八年(1590年)の小田原征伐では伊豆の山中城攻めに加わり、家康の関東入りに従って武蔵国鯨井(今の埼玉県川越市)に5,000石を与えられています。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に従って信濃上田城の真田昌幸を攻めました。秀忠の遅参に家康が怒った際、一西だけは諫めたと答え、家康から自ら采配を授けられたという逸話が伝わります。その後、近江の膳所城を築いて膳所藩の初代藩主となりました。

藩政の歩み

初代藩主の氏鉄は、寛永十四年(1637年)の島原の乱で松平信綱のもと副将格として兵2,500を率いて出陣しました。藩内では家臣に土地を与える地方知行をやめて俸禄に切り替え、新田開発や治水に力を入れて藩政の土台を作りました。後の藩主では、第7代の戸田氏教が老中となって幕政に加わり、第8代の戸田氏庸は天保十一年(1840年)に藩校・致道館(のちの敬教堂)を開いています。一方、第6代氏英の改革は年貢の引き上げを伴ったため、明和三年(1766年)に百姓一揆が起こって失敗しました。

本家と分家—大垣新田藩

大垣藩には支藩として大垣新田藩(畑村藩とも)がありました。氏鉄の次男・戸田氏経が旗本として取り立てられたのが始まりで、その後も本家から新田の分与を受けました。元禄元年(1688年)、戸田氏成のときに本家の第4代藩主・戸田氏定から新田3,000石を分けられ、合わせて1万石となって大名に列しました。藩庁は三河国渥美郡畑村(今の愛知県田原市)に置かれ、領地は三河と美濃に分かれていました。明治二年(1869年)には藩庁を美濃国大野郡野村(今の岐阜県大野町)に移し、野村藩と名を改めています。

同じ時代の大きな出来事—赤穂事件

元禄十四年(1701年)、赤穂藩主・浅野長矩が江戸城で吉良義央に斬りつけ、切腹となりました。長矩は大垣藩主・戸田氏定の従弟にあたります。事件の後、江戸の赤穂藩邸に押し入って騒ぐ者が続出したため、大垣藩からも取り締まりと警護の人数が送られました。氏定自身も親戚として連座し、老中の命でしばらく出仕を止められています。大垣新田藩の戸田氏成も同じく出仕を止められました。

藩主家の子孫・明治以降

最後の藩主・戸田氏共は、明治十七年(1884年)に華族令が出されると伯爵となりました。氏共は昭和十一年(1936年)まで長命を保っています。

領地のようす

幕末の大垣藩の領地は美濃国の中にまとまっており、安八郡(90村)、池田郡(53村)、大野郡(45村)、本巣郡(31村)、多芸郡(24村)、石津郡(12村)、不破郡(10村)、方県郡(2村)など、城下の大垣(今の岐阜県大垣市)を中心に西美濃の平野部に広がっていました。初代の氏鉄が新田開発と治水に力を注いだのも、この平野部の領地を治めるためでした。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、10万石のこの藩はおよそ2,350人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「大垣藩」「戸田氏鉄」「戸田一西」「大垣新田藩」

場所・アクセス・地図

大垣の現地を歩いた記録

大垣藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

東海の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次