尾張藩(名古屋藩)/徳川家61万9千500石:徳川慶勝 御三家でありながら鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に味方した尾張藩

【藩名】
尾張藩(名古屋藩)

【説明】
幕末の第14代藩主「徳川慶勝」は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めました。安政5年(1858年)の将軍後継者問題や条約勅許問題などから一橋派に与して「井伊直弼」らと対立し、この政争に敗れた慶勝は直弼の「安政の大獄」によって強制的に隠居処分に処されました。そして第15代藩主には慶勝の弟「徳川茂徳」がなりました。

尾張藩(名古屋藩)/場所・アクセス・地図 徳川家61万9千500石:徳川慶勝 御三家でありながら鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に味方した尾張藩【幕末維新写真館】

※なお、徳川慶勝は美濃高須藩からの養子で実弟には会津藩主「松平容保」、桑名藩主「松平定敬」などがいます。

直弼が「桜田門外の変」で水戸浪士や薩摩浪士に暗殺された後の文久3年(1863年)、9月13日には茂徳が隠居して慶勝の子「徳川義宜」が第16代藩主となりました。このため慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に推されたりしました。慶勝は「第二次長州征伐」の総督にも任命されたがこれを辞退しています。

将軍徳川慶喜による「大政奉還」後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議では辞官納地を慶喜に求める使者となっています。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」によって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝は「徳川御三家」にも関わらず新政府軍に味方し、藩内の佐幕派は「青松葉事件」によって弾圧されました。

「鳥羽・伏見の戦い」の後、明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主「徳川慶勝」は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へと動かして新政府軍の東海道通過を容易にしました。

明治3年(1870年)には財政難に陥った尾張藩の支藩であり、慶勝や茂徳の実家でもある「美濃高須藩」を吸収。明治4年(1871年)7月14日の「廃藩置県」により尾張藩は廃藩し名古屋県となりました。その後、犬山県との統合し愛知県への改称、さらには額田県との統合を経て現在の愛知県となりました。

目次

尾張藩をもっと深く——兄弟が敵味方に分かれた家

御三家筆頭が新政府側についた、という一行で片づけられがちな藩です。だが尾張藩の幕末は、そう単純ではありません。藩主の一族が敵味方に割れ、藩内では血が流れ、その代償として東海道は戦場にならずに済みました。

美濃高須に生まれた四人

幕末の尾張藩を語るとき、避けて通れないのが高須藩の兄弟です。尾張の連枝である小藩に生まれた男子が、それぞれ大藩へ養子に出た結果、幕末の対立軸のほとんど全部に一族が配置されてしまいました。

兄弟 立場
徳川慶勝 尾張藩主。長州征討総督ののち、新政府の議定
徳川茂徳 兄の跡を継いで尾張藩主、のち一橋家を継ぐ
松平容保 会津藩主。京都守護職、朝敵
松平定敬 桑名藩主。京都所司代、箱館まで抗戦

維新から十年ののち、四人が並んで一枚の写真におさまっています。勝った側と負けた側が同じ座敷にいる、幕末史でも異様な一枚です。

青松葉事件——藩論を一週間で変えた粛清

鳥羽・伏見の直後、慶応四年一月二十日から二十五日にかけて、尾張藩は藩内の重臣を粛清しました。斬られたのは十四名、処罰された者が二十名。筆頭で処刑された家老・渡辺新左衛門の家の通称が「青松葉」だったことから、この名で呼ばれます。

背景には、朝廷から慶勝に下された帰国命令がありました。東海道の要にあたる尾張の佐幕派を抑え、近隣諸藩を朝廷側へ説得せよ、という趣旨です。ただし——処罰された者の名簿には、佐幕派とは言いがたい人物や、藩内の政敵と見られる者も混じっています。なぜこの人選だったのかについて、いまも定説はありません。藩論の統一という名目のもとで、長年の藩内抗争が一気に決着させられた、という見方が有力です。

名古屋城の東、現在の名古屋市中区あたりに事件の遺跡を示す碑が立っています。御三家筆頭の藩が、藩論を変えるためにこれだけの犠牲を払った事実は、あまり語られません。

東海道が戦場にならなかった理由

粛清のあと、慶勝は東海道諸藩の触頭に任じられ、尾張の使者が沿道の藩を一つずつ回りました。譜代の小藩にとって、御三家筆頭からの説得は断りにくい。結果として東征軍は、掛川浜松田中吉田も、ほとんど一発も撃たずに通過しました。

東海道の城下町に幕末の建物がいくつも残っているのは、この藩が動いたからです。例外は弟の桑名藩で、藩主・定敬が江戸から北へ転戦する一方、国元は城を明け渡すという分裂を強いられました。

写真を撮った殿様

慶勝は湿板写真の熱心な撮り手でした。名古屋城の櫓や門、家臣の姿、江戸屋敷の庭、さらには長州征討の陣中まで、自ら機材を扱って写しています。ガラス原板が数多く現存し、「写真家大名」と呼ばれる由縁になっています。

幕末の大名が自分の目で選んで撮った風景が、まとまって残っている例はほとんどありません。空襲で焼ける前の名古屋城の姿を、いま私たちが細部まで知ることができるのは、この殿様が趣味に本気だったおかげです。

戦場にならなかった城の、その後

名古屋城は戊辰戦争で一度も攻められませんでした。天守も本丸御殿も無傷のまま明治を越え、国宝に指定されています。それが焼けたのは昭和二十年五月の空襲です。戦争を三代分やり過ごした城が、最後の戦争で失われました。明治三年には財政難の高須藩を吸収し、翌年の廃藩置県で尾張藩は名古屋県となります。

【場所・アクセス・地図】

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