相良藩 /田沼家1万石:田沼意正 上総国小久保藩へ移封のため廃藩

【藩名】
相良藩

【説明】
天明6年(1786年)、将軍「徳川家治」が死去すると「松平定信」の粛清にあって「田沼意次」は失脚し強制的に隠居させられました。そして、意次の孫「田沼意明」が家督を継いだが、陸奥下村藩に1万石で移封されました。定信はさらに、和泉国岸和田藩主の「岡部長備」に相良城を破却させて相良藩は廃藩となります。

文政6年(1823年)7月8日、「徳川家斉」の尽力もあって意次の四男「田沼意正」は旧領相良に1万石で復帰を許されました。明治元年(1868年)、第3代藩主「田沼意尊」の代に上総国小久保藩へ移されたため再び廃藩となりました。

【壊された城の材木は、いまも寺の本堂になっています】

相良城の取り壊しは、日付まで記録に残っています。天明八年(1788年)正月十六日から二月五日まで。三週間ほどで城は消えました。没収と廃城の処分が下ったのが天明七年で、実際に壊されたのはその翌年です。

ただし、材木まで消えたわけではありません。寛政三年(1791年)に建てられた大澤寺の本堂は、相良城の木材を使ったものです。床下に建物の木組みの跡が残るといいます。般若寺には田沼家ゆかりの陣太鼓と相良城の杉戸が伝わり、藤枝の大慶寺には御殿と書院が移されました。城は消しても、村々へ配られた材木までは消せなかったわけです。文政六年(1823年)に意次の四男田沼意正が一万石で戻ったとき、城は再建されず、城跡に陣屋が構えられました。

そして幕末の藩主が田沼意尊です。文久元年(1861年)九月十四日、四十三歳で若年寄となりました。元治元年(1864年)七月八日、武力討伐に反対していた松平直克が失脚して幕府の方針が固まると、意尊は天狗党追討軍の総括に任じられます。ただし戦績はふるわず、部田野の戦いでは敗れ、家老の井上寛司が軍資金を調達したのちに切腹する事態も起きました。

最も知られるのは、そのあとです。元治元年十二月、天狗党は敦賀で加賀藩に投降しました。加賀藩はかなり丁重に扱ったと伝わります。ところが意尊の率いる幕府軍が敦賀に着くと、扱いは一変しました。関東での惨禍を目にしていた意尊らは激怒し、天狗党員を鰊倉へ押し込めます。鰊の肥料を入れておく荷蔵十六棟でした。

そして慶応元年(1865年)二月四日、武田耕雲斎ら幹部二十四名を皮切りに、十二日に百三十五名、十三日に百二名、十六日に七十五名、二十日に十六名。合わせて三百五十二名が斬られました。三百五十三名とする資料もあります。捕らえられた八百二十八名のうち、残りは遠島や追放となりました。処刑の場は来迎寺野と呼ばれ、そのたびに穴を掘って埋めたため五つの塚になっています。

明治元年(1868年)、徳川宗家が駿府七十万石へ移されたことで、駿河と遠江の諸藩は房総へ動かされます。田沼家も九月に上総の周准郡と天羽郡で一万千二百七十石を与えられ、小久保藩となりました。意尊は翌明治二年十二月に世を去ります。

相良城の跡は、本丸が牧之原市役所相良支所と牧之原市史料館、二の丸が相良小学校、三の丸が相良高校です。史料館には田沼意次を中心とした資料が二百点以上あり、館の前に意次の像が立ちます。小学校の校門脇には二の丸の土塁が残り、築城のとき仙台藩主伊達重村が寄せた石で築いた「仙台河岸」の石垣も残ります。意次が失脚した天明六年に再建された平田寺の本堂は、いまも田沼家専用の玄関を備えたまま建っています。

【場所・アクセス・地図】

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