坂木藩/板倉家3万石:板倉重寛 陸奥福島藩へ移封のため廃藩

坂木藩 板倉家3万石 最後の藩主 板倉重寛
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坂木藩の歩み

天和二年(1682年)二月、老中を罷免された「板倉重種」が五万石で坂木へ移されて坂木藩が成立しました(重種の「蟄居」によるとする資料もあります)。重種は武蔵岩槻藩六万石の藩主で老中を務めていたが、天和元年(1681年)に罷免されて蟄居を命じられました。蟄居の翌年、重種は幕府に所領返還を申し出たが、祖父の「板倉重昌」の功績から、重種の長男「板倉重寛」に坂木藩三万石、甥の「板倉重宣」に上総高滝藩二万石をそれぞれ与えました。

元禄十五年(1702年)十二月、重寛が陸奥福島藩三万石に移封されたことにより坂木藩は廃藩され天領(幕府領)となりました。

廃藩のあと—幕末の坂木

老中まで務めた板倉重種が失脚して蟄居した先が坂木でした。元禄十五年(1702年)に嫡子の重寛が陸奥福島藩へ移って廃藩となり、この地は再び天領に戻ります。

坂木陣屋は宝暦九年(1759年)に廃止され、明和四年(1767年)に焼失しました。安永七年(1778年)、一・七キロほど上田寄りの中之条へ「中之条陣屋」として移されて再建され、以後、幕末までここの代官所が坂木周辺の天領を管轄します。松代藩領ではありません。

その中之条陣屋が慶応四年(1868年)に新政府によって廃止され、いったん尾張藩の取締役所となり、同じ年のうちに伊那県の中之条局になりました。天領の支配機構が、そのまま新政府に引き継がれた形です。

坂木は北国街道の宿場でもありました。参勤交代と善光寺詣りで賑わい、嘉永七年(1854年)には旅籠が六十四軒。善光寺門前の権堂村に次ぐ規模の遊郭もありました。老中まで務めた人物の左遷先が、実は北信有数の歓楽街だったことになります。

なお「坂木」が「坂城」の表記に変わったのは明治十九年(1886年)です。

陣屋跡はしなの鉄道・坂城駅のすぐ隣にあり、説明板が立ち、北国街道沿いに石垣が確認できます。坂木宿本陣の長屋門は「坂木宿ふるさと歴史館」に残されています。

【廃藩のあと—幕末の坂木】

元禄十五年に藩は終わり、幕末は代官所の土地でした

坂木藩は元禄十五年(1702年)十二月、板倉重寛が陸奥福島藩三万石へ移されて廃藩となり、そのあと坂木は幕府の領地になりました(Wikipedia)。つまり幕末の坂木に藩はありません。

日本大百科全書は「近世は北国街道の坂木宿であり、坂木代官所が置かれたが、明治以後、街道交通の機能を失い衰退した」と書いています。世界大百科事典も、宿場町として栄え幕府の代官所が置かれたとしています。街道の呼び方は、日本大百科全書が北国街道、世界大百科事典が北国脇往還としていて一致しません。

代官所は幕末に中之条へ移っていました

坂木の陣屋が焼けたあとの出張陣屋が中之条陣屋で、慶応四年に新政府がこれを廃止しました。そのあとは尾張藩の取締役所、同年の伊那県中之条局、明治三年の中野県を経て、明治四年に長野県へ移っています。建物は残っておらず、跡は坂城町の史跡とされています。

坂城町公式によれば、坂木宿ふるさと歴史館の入口に立つ長屋門は坂木宿の本陣にあったものを移したもので、町の有形文化財です。藩の遺構ではなく、宿場の遺構として残っているわけです。

板倉家のその後

坂木の板倉家は福島へ移った本家の系統です。幕末に藩主だった板倉家は、備中松山藩、安中藩、庭瀬藩、重原藩の四家で、別の資料は安中の板倉家を本家から分かれた別の分流としています。坂木藩の支藩とされる高滝藩のページもあります。

幕末の坂木を見るときは、藩ではなく、北国街道の宿場と代官所の土地として見ることになります。

板倉家の先祖—京都所司代・板倉勝重と島原の乱の重昌

坂木藩の板倉家は、江戸初期に京都所司代として名を残した板倉勝重の家系です。勝重は家康に重用され、関ヶ原の戦いのあと京都の治安と朝廷・公家の監視にあたり、その公正な裁きは「板倉政要」として後世に伝えられました。

勝重の次男・板倉重昌は、三河深溝藩主として寛永十四年(1637)に起きた島原の乱の鎮圧を命じられます。しかし一揆勢の籠る原城をなかなか落とせず、老中・松平信綱が新たに派遣されると知ると、翌年正月元日に総攻撃を仕掛けて討死しました。坂木藩が成立したのは、この重昌の功績が考慮されたためで、孫の重種が老中を罷免されたあとも、子の重寛と甥の重宣に所領が分けて与えられています。

福島から重原へ—坂木の家の幕末

坂木から陸奥福島に移った重寛の家は、その後も福島藩主として幕末まで続きました(福島城の現地取材)。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、敗れたのち明治二年(1869)に三河の重原藩へ移されています。一方、勝重の長男・重宗の流れからは備中松山藩主となった板倉勝静が出て、幕末に老中首座として徳川慶喜を支えました。同じ勝重の子孫が、奥州と備中でそれぞれ旧幕府側として明治を迎えたことになります。

徳川光圀と対立した老中と、中之条陣屋

重種の転落

板倉重種は延宝8年(1680)9月、家綱の死後に綱吉に抜擢されて老中となり、天和元年(1681)には下野烏山から岩槻へ移りました。しかし綱吉の世継ぎ問題で徳川光圀と対立したことなどから、天和2年(1682)2月に5万石で坂木へ移されたとされます。家督争いと分知の経緯については高滝藩を参照してください。

重寛と福島への移封

坂木藩を継いだ板倉重寛は、一時旗本板倉重直の養子でしたが実家に戻って嗣子となりました。正室は津和野藩主・亀井茲政の娘です。坂木時代の殿席は菊間でしたが、陸奥福島へ移ると城主大名となり、雁間詰に上がったとされます。重寛は家老に福島城を受け取らせ、宝永元年(1704)に入部しました。

板倉家より前の坂木陣屋

坂木陣屋は板倉家より前からありました。元和8年(1622)、松代藩主の転封で坂木は天領になり、代官陣屋が置かれたとされます。のちの中之条陣屋跡は坂城町の指定史跡です。坂木陣屋跡は坂城駅の東側にあり、案内板の裏面には古地図が描かれています。

考察:老中から地方へ、そして城主へ

老中の座から滑り落ちた重種の家が、子の代に福島の城主として格を取り戻した。坂木藩は、板倉家にとって雌伏の時代の拠点だったと言えます。

場所・アクセス・地図

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